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六、「会津・庄内同盟」成立する。七、「会津救解」進展

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-5
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

六、「会津・庄内同盟」成立する

四月九日、綱紀・佐久間平介、容保の密命を受けて庄内に向かい、庄内藩士の石原平右衛門・松平権十郎と会談し、「会庄同盟」を内約する。さらに翌日、仙台・米沢藩の同盟の斡旋することを提案、実現の運びとなる。
四月二十六日、綱紀は庄内藩士菅秀三郎、本田安之助と共に若松に戻り、松平容保は庄内藩士両名も召して懇篤の御辞をする。家老内藤介右衛門、諏訪伊助、一瀬要人らも菅秀三郎、本田安之助らを歓待し、同盟の約を固結し、互いに藩士を派遣して常駐し、密議を預かり聞くこ
とを約した。
庄内藩からは物頭・戸田文之助、軍事掛・青野遊平が来寓し、会津藩からは佐久間平介が庄内鶴岡に寓居することとなった。

七、「会津救解」進展する

四月に入ると、奥羽鎮撫総督府の執拗な会津追討の出陣命が出され、仙台藩は一応出陣し、土湯口、沼尻口、石笹口、中山口、御霊橿口な
どで仙台・会津の戦が行われた。鎮撫総督府参謀の世良修蔵は本営を本宮に進め、大いに督戦したが、互いに本気で戦う姿勢はなく、形式的
な戦闘を繰り返すのみであった。水面下でほ仙台・米沢・二本松藩の使者が若松を訪れ、諏訪常吉・手代木直右衛門・小野権之助、家老の梶
原平馬・内藤介右衛門、一瀬要人らと「会津救解」の面談が頻繁に行われている。そして四月二十一日、米沢藩使者と梶原平馬・伊東左太夫・河原善左衛門・土屋宗太郎・山田貞助の五名が面談ののち、容保父子の謹慎と削封の結論に至り、翌閏四月一日の二日間仙台藩家老・坂英力、但木土佐、米沢藩木滑要人・片山仁一郎らと七ヶ宿の関宿で行われた。謝罪勧告を受けて伊東左太夫、山田貞助は若松へ急行する。
四月二十六日、米沢藩・木滑要人、仙台藩・但木土佐、恭順謝罪を請う会津藩士使者と協議を行う旨を奥羽鎮撫総督府に報告する。
閏四月四日、仙台・米沢両藩は、松平容保の恭順謹慎の嘆願を受けて、追討中止を総督府に申し出る。また仙台藩・但木土佐、米沢藩・竹 股美作らほ、会津藩の嘆願の取り扱いについて白石で協議を行いたい旨の書面を、奥羽諸藩に送っている。列藩同盟結成へ向けての流れであ る。


五、白河口と周辺の防備態勢

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-4
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

五、白河口と周辺の防備態勢

会津藩は、軍制改革なった三月下旬には、藩四境防備態勢を整え派兵を行っている。
白河ロと周辺方面には、
○会藩、亦兵を出し、其封境を厳守せざるを得ず。故に四境方面持口を定め、将卒を出す。
一、大平口には原田対馬を総督とし、朱雀三番 土中隊長・上田八郎右衛門、青龍三番足軽隊長・蛤川友次郎、土着士頭・相馬登、新練隊 長・土屋鉄之助、土工兵頭・小池帯刀、朱雀三番足軽隊長・原田主馬。
一、勢至堂口にほ横山主税総督、青龍一番土中隊長・鈴木作右衛門。勢至堂峠に関門を修営し、塁壁を築き、山谷の細流を湛えて備う。
一、中地村には青龍一番足軽隊長・鈴木市郎左衛門在りて、鶴、追分の両口を守る。
一、三森峠には坂部三十郎、地方士七五人を率いてこれに当たる。
一、御霊櫃峠、浜路村には青龍足軽隊長鈴木式部あり。
一、壷下、中山峠、山潟、都沢の径路は義集大隊長辰野源左衛門、朱雀一番隊長小森一貫斎、青龍一番寄合隊長木村兵庫。
一、石延口には猪苗代城代田中源之進、砲兵二番隊長高橋権太輔、朱雀四番足軽隊長横山伝蔵、力士隊長赤垣平八等を置いて守らしむ。
一、沼尻越は絶険の地なれども、尚猪苗代士坂網をして、農兵数百を引率して守らせけり。
一、高森、横向は福島の通路なれば朱雀一番寄合隊長一柳四郎左衛門これに赴く。
一、檜原口大峠、萱峠には青龍二番隊長有泉寿彦あり。関門を造りてこれを守る。
(『七年史』から)
※『七年史』は会津藩士北原半介(雅長)の著である。
この頃の白河は、奥羽鎮撫総督府の命に、仙台・二本松(両藩は城内)・棚倉・三春(学館=修道館)・泉及び湯長谷(妙閑寺)・平(常瑞寺)の諸藩が白河城を守備しっつあった。
○白河は、西は勢至堂も険を経て若松に通じ、東は棚倉を過ぎて平に達し、北は須賀川、郡山、二本松、福島を経て仙台、米沢に通じ、南は宇都宮方面より進入する主要なる道路にして、奥羽南方の咽喉(のど)部を挺する(要所)形勝地にして、また会津第一の関門なり。
(『会津戊辰戦争』から)
四月二十日、家老西郷頼母が猪苗代に出張し、東境を総督し、参政横山主税が三代に副総督として出張する。白河口の防備陣が強化された。


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お知らせ

第42回土方歳三忌
日 時:平成29年(2017年)5月13日(土)
法要11:00~
講演会14:00~
場 所:
墓前法要 石田寺
東京都日野市石田1-1-10
(多摩都市モノレール満願寺駅下車・徒歩7分
京王線高幡不動駅下車・徒歩15分)
講演会 高幡不動尊金剛寺 信徒会館
東京都日野市高幡733
(京王線高幡不動駅下車・徒歩5分)
講師 権 東品氏(新選組刀剣研究家)
「土方歳三の愛刀について」
高幡不動尊 信徒会館案内図
高幡不動尊 信徒会館案内図
会 費(講演会のみ):おひとり 2000円 (記念品を含む)
※ 墓前法要のみ参加の方は、無料です。
※ 当日、直接申込みも可能です。
※ 事前申込みされた方は、領収書をご持参ください。
当日は、日常的な普通の服装でお越しください。
コスプレや各種隊服、ユニフォーム、帯刀、下駄履きは、ご遠慮願います。
※ ただし、同日開催の他イベント参加者は、この限りではありません。
新選組関連の同好団体で、歳三忌の“共催団体”もしくは“協力団体”はございません。
お申込み・お問い合わせは、必ず新選組友の会へお願い致します。
ネット上に、事実や公式サイトと異なる情報が流されている場合も多く、大変迷惑しております。
公式サイトと食い違う情報や申込み方法を見かけ、不安を感じたときは、公式サイトを確認し直すか、新選組友の会へお問い合わせください。
参加申込み
土方歳三忌は、友の会会員はもちろん、会員でない方もご参加いただけます。
申込み方法は「新選組友の会」と検索して、そちらでご覧ください。

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お知らせ

第14回 近藤勇忌
日 時:平成29年(2017年)4月9日(日)
法要13:30~
講演会14:30~16:00
場 所:
法要 長流寺
千葉県流山市流山6-677
(流山電鉄線平和台駅下車・徒歩10分)

講演会 流山市福祉会館
千葉県流山市流山2-102
(流山電鉄線流山駅下車・徒歩約5分 長流寺から・徒歩3分)
講師 松成 武治氏(元文藝春秋編集者、司馬遼太郎「燃えよ剣」担当者)
「『燃えよ剣』が最良の司馬遼太郎作品です」
会 費(講演会のみ):おひとり 2000円 (記念品を含む)
※ 法要のみ参加の方は、無料です。
※ 当日、直接申込みも可能です。
※ 事前申込みされた方は、領収書をご持参ください。
当日は、日常的な普通の服装でお越しください。
コスプレや各種隊服、ユニフォーム、帯刀、下駄履きは、ご遠慮願います。
※ ただし、同日開催のパレード参加者は、この限りではありません。
近藤勇忌は流山新選組まつりと連動しておりますが、新選組友の会は近藤勇忌の法要と講演会のみに関わっております。
近藤勇忌の法要と講演会に関するお問い合わせ・お申込みは、新選組友の会のみが扱っております。他の関係機関では対応できませんので、ご注意ください。
流山新選組まつりで行われるその他の催しについてのお問い合わせ等は、流山市、または流山市観光協会へお願い致します。

参加申込み
近藤勇忌は、友の会会員はもちろん、会員でない方もご参加いただけます。
申込み方法は「新選組友の会」と検索して、そちらでご覧ください。

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四、会津藩、武備恭順に決し、軍制改革を断行

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-3
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

四、会津藩、武備恭順に決し、軍制改革を断行

西軍は一月半ば頃から仙台・米沢藩に執拗に「会津追討命」を下し、三月十八日、奥羽鎮撫総督府が仙台湾に入港し、仙台・米沢藩に会津
追討を命じている。下参謀の世良修蔵の横柄な態度が反感を買う。しかし、すでに水面下では仙台・米沢藩は「会津救解」に動き出していた。
一方、会津藩は幾度となく「謝罪恭順」の嘆願書を提出していたが、何の返答もなく、遂に会津藩は三月十日に「軍制改革」を断行、「武
備恭順」に決した。改革の柱は①軍制を洋式
に改め、②各隊を班席(身分)・年齢別に編成、③農町兵を募るとし
年齢      士中隊 寄合組 足軽組
白虎隊一六~一七歳  二隊  二隊  二隊
朱雀隊一八~三五歳  四隊  四隊  四隊
青龍隊 三六~四九歳 三隊  二隊  四隊
玄武隊 五〇歳以上  一隊  一隊  一隊
の各隊を定めた。
各隊は中隊頭(隊長)一名、小隊頭二名、教導(一、二名)を置き、隊士は七二名を定員としたが、隊どとに多少の増減ほあった。このほかに、医師、兵糧方、事務員あるいは隊士従者なども加わり、実際は百名以上になっていたが、白虎隊だけはその半数であった。各隊の任務ほ、朱雀隊は第一線に出て戦う実戦部隊、青龍隊は藩境の守備隊、玄武・白虎隊ほ予備隊であった。
これら主力部隊のほかに、砲兵隊、遊撃隊、築城兵などを加え、約三千余名をもって正規軍を組織、募った農町民兵は主として工兵・輪重
兵を養成するためで、二十歳から四十歳までの身体強健な者二千七百名であった。これを四郡各組に分け、組ごとに各村の郷頭、帳書、肝煎
を置いて帯刀を許し、その上に代官、支配役、帳付などを置いて指揮させた。また猟師隊、力士隊、修験隊なども編成し、正規軍と合わせて
七千名を越えた。しかし、砲兵隊には大砲など少ない状態で、小銃で戦っていたという。
武器は二月二日に旧幕府に武器借用の嘆願書を提出し、品川沖台場・箱館台場から大砲を借りたり、また家老梶原平馬、鈴木多門らが、長
岡藩家老・河井継之助の紹介でプロシア商人スネルから小銃・武具などを購入、さらには軍事取詞役兼大砲頭取の山本覚馬が、長崎で鉄砲一
万五千挺のスナイドル銃をドイツ人ルドルフ・レーマンに発注するも、鳥羽伏見の戦いの後に彦根藩に渡ってしまうのである。


三、近藤勇の墓を建立

 

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会津戊辰 白河戦争と新選組-2
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

三、近藤勇の墓を建立

日時は定かでないが、土方は若松城(鶴ヶ城)に登城し、宰相松平容保、藩主松平喜徳に拝謁、日新館で負傷者の手当てをする元幕医の松本良順の手当てを勧められ、そこで東山温泉での治療も勧められている。
土方は近藤の墓を建立するのに際し、松平容保を通じ、天寧寺二十九世吟月雲歩和尚から鶴ヶ城小書院で授与された「貫天院殿純忠誠義大居士」の墓を建てた。近藤の首を埋めたとも言われているが、真偽の程は定かではない。
土方歳三は、いつ近藤の死を知ったのであろうか。
この首の墓について、こんな話が伝わっている。昭和十八年(一九四三)六月二十日に発刊されている若松市出身の畑喜代司氏の『維新の
裏を行く』の中に十二頁にわたり「近藤勇の首」と題して詳記されている。畑氏が当時天寧寺の大沢住職から聞いた話として、
○近藤の墓は、明治になり草むらや薮影に没して自然に判らぬままとなっていたが、大正十二年(一九二三)頃より一学徒が天寧寺に来て「この山に近藤勇の墓があるそうですが」 と云った。その時の住職大沢義三が「それは 私にも判りません」と答えたのを、傍らで薪割りをしていた山内兵蔵(七五歳)なる者が聞いて「ああ近藤勇と聞いて私は思い出しました。今あそこに墓があるかどうかほ私は判りませんが、私が十九歳の時、私の親父が人 足を使ってあの山上の西面に埋めたのです」と言いつつ、兵蔵は住職と新潟の学徒を連れて山上へ登って今の墓を薮影から発見して驚 いた。
○この頃、東京でこの珍しい話を聞いた会津藩家老山川大蔵の弟山川健次郎理博(帝大名総長)らが帰郷して、市議・畑喜代造らが案内役になり、この新発見の墓へ参拝し、新聞も大々的にこれを報道した。
○兵蔵老人の父は兵助といい、天寧寺部落の世話役で寺の手伝役をつとめていたが、戊辰籠城の直前頃、兵助は人足を指図して一個の首でも入っていると思われる菰包をここへ埋めていた。息子の兵蔵が「コレ何だべ…」と聞くと、「黙っていろ!近藤勇だゾ」と父は答えた。兵蔵が大沢住職に語ったところによると、その菰包は、丁度首が入っていた位の大きさであった。だから兵蔵は、それは首だと思っていたという。


○筆者は昭和三年(一九二八)より二十年まで在京中、年二度も開催された会津会の席上で、昔の藩の先輩多数に面談して居りますが、近
藤勇の首が来た夜は、藩の有志多数が提灯を幾つも下げて滝沢峠の下まで出迎えたこと等も聞いている。即ちあの墓には近藤の首を埋めたものと聞いている。
これらの資料から、京都三条河原に晒された近藤の首を誰が盗ったのか、会津まで誰がどのようにして運んだのか、等々が謎のままである。京に運んだ時は塩漬けして運ぼれたと伝わるが、京都から会津まではどのようにして、誰が運んだのか、藩の有志が滝沢まで出迎えたというが・・・。
つづく
(上記は、新選組友の会ニュース148に掲載されたものです)
新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。 新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/


一、会津藩、白河城・棚倉城の接収を願う

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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸

会津戊辰 白河戦争と新選組-1
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

一、会津藩、白河城・棚倉城の接収を願う

慶応四年(一八六八) 二月二日、会津藩は藩士石沢民衛が旧幕府に白河城・棚倉城の接収を願い出た。しかし、旧幕府からの返答はなかったようである。この頃、旧幕府はいかなる経緯によるのか、棚倉藩主・阿部美作守(正勝=十万石。譜代)を白河再転封の辞令を出した。 だが、大政奉還後の転封は朝廷との摩擦にもなりかねないと結局これも沙汰止みとなり、二本松藩が守備をすることとなった。

二、新選組隊士、会津へ

慶応四年(一八六八)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、新選組は江戸に帰った。二月二十七日、旧幕府より二千三百九十四両、二月二十九日に会津藩より千二百両、三月一日、幕医松本良順から三千両を受領し、三月一日「甲陽鎮撫隊」として甲州を目指すが勝沼で敗れ、再び江戸に集結するが、永倉新八、原田左之助、矢田健之助らは新選組と袂を分かった。近藤勇、土方歳三らは五兵衛新田の金子邸中心に屯集し、隊士を募り、四月一日、流山に二百三十人が移動した。
四月三日、突如、西軍に包囲された。多くの隊士は視察と称して野外演習に出払っていた。近藤勇は投降を決意した。近藤を見送った土方歳三ほ、西軍が牛耳る江戸に潜入し、勝海舟に近藤救護を頼む。残った隊士二百三十人は「会津」を目指すこととなる。途中、脱走する者もあったようであるが、多くは四月六日、銘々船で利根川を下り、銚子から船で磐城・平潟港に上陸、棚倉を経て白河、勢至堂峠を越えて会津へ。また潮来から陸路で水戸街道へ抜け、会津へ入った者もいたようである。その人数は百二十名ぐらいであったようだ。斎藤一が最も早く五、六十名を率い会津入りしたという。
一方、江戸に入った土方歳三は、近藤救護が功を奏さず、そんな中、江戸城明け渡しが決まり、江戸を離れる決意をし、四月十日、島田魁・蟻通勘吾らの側近を従え、今戸から小梅村・霊山寺へ、そこで法恩寺に旧幕諸隊が集結していると聞き、面談し、翌十一日、市川・鴻ノ台に向い、軍議を持った。十二日、旧幕伝習歩兵隊長大鳥圭介が合流し軍議、軍を前軍、中軍、後軍の三軍に分け、土方は前軍総督秋月登之助
(会津藩士・江上太郎) の参謀となり、宇都宮へ向けて進発。
四月二十日、宇都宮城を攻略、二十二日安塚の戦い、翌二十三日宇都宮城を西軍に奪還され、土方は足を負傷(手にも負傷との説もある)、二十四日、今市に後送されていた秋月登之助・土方歳三は護衛十余名と共に会津西街道を会津へ向かった。二十六日、田島陣屋に至り、秋月は残り(父・江上又八は田島代官)、土方は新選組隊士島田魁・漢一郎・中島登・畠山二郎・沢忠助・松沢乙造の六人に護られて会津を目指し、大内宿を経て二十九日、会津城下七日町清水屋に着いた。「土方来る」の報に会津入りしていた隊士らがぞくぞく清水屋に訪れ、再会を果たした。
また土方は清水屋に滞荏中、唐津藩士大野右仲、幕臣望月光蔵らと面談している。このころ(四月から五月にかけて)には元老中・板倉勝
(備中松山藩主)、唐津藩主世主・小笠原長行、幕府典医松本良順、桑名藩主・松平定敬(さだあき)、、長岡藩主父子・牧野忠恭(ただくに)・牧野忠訓(ただくに)らが城下に滞住していた。

(上記は、新選組友の会ニュース148に掲載されたものです)

 


永倉新八『新撰組顛末記』

 

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 講師の一言

     新選組友の会主宰・大出俊幸

 三島由紀夫が自決した翌年(1971年)の2月、私は縁あって新人物往来社の書籍編集部へ入りました。
その年の秋、以前から懇意にしていただいていた評論家の尾崎秀樹先生の書棚から、『永倉新八』と題された本をお借りしたのが、私と新選組の出遭いになります。
私は大学生の4年間を京都で過ごしましたが、その頃は新選組には目もくれず、木屋町の安酒場で白い濁酒(ドブロク・とっても安かったのです)を飲んでは、友人達と遊泳する日々でした。
永倉新八という新選組の隊士が三条小橋西詰の池田屋(大学生当時は修学旅行宿・佐々木旅館)に突入し、乱刃をふるい何人かを斬った。その本人が大正年間まで生き残り、体験談を残した。
自分の記憶にある京都の町並みが鮮やかに蘇り、そこを歩き、そこで戦った永倉新八という存在が、とてもリアルで身近に感じられたのです。夢中になって読みました。
私の中で血がたぎり始め、感慨が大波のように押し寄せて、いてもたってもいられません。
そんな気持に突き動かされ、永倉新八の体験談を『新選組顛末記』と改題して発行。
以後は新選組にどっぷりつかり、新選組の書籍156冊を世に送り出しました。
そして今も、新選組が大好きです。
新選組ファンの皆様と、楽しく賑やかに新選組に関わっていかれる事に、何より大きな喜びを感じております。

   (新選組友の会ニュース掲載)

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 村長から一言

 流山市在住の大出さんの影響で流山は今や新選組のメッカ、熱心な新選組研究家は全国に沢山いて出版物も沢山出ていますが、その中心にいるのが大出俊幸さんです。
私は50年ほど昔、流山市内に家を建てるべく土地を購入したことがあります。仕事の事情でそこを手放して墨田区内に家を持ちましたので流山市民にはなりませんでしたが、流山に在住して縁があったら大出さんの指導の下で流山新選組の行事に拘わっていたはずです。お互いに古い付き合いで、私が生涯尊敬し続けることの出来る人である上に何となくウマが合います。大出さんが新選組に興味を持った切っ掛けは、永倉新八の手記を呼んで感動にしたからという立派な動機からですが、私の場合は実に情けない動機からです。前述の流山に土地を購入した頃、私は弓引きで五段、毎年五月初旬に京都三十三間堂での大的、御所内弓道場での小的と日本選手権などに出て「出ると負け」を繰り返していました。ところが同行の先輩・後輩などは勝ち抜いて翌日も試合ですから、負けた私は京都市内をぶらつくしかありません。それで興味がないのに新選組の史跡巡りで退屈しのぎです。結局、弓は挫折して鮎釣りに化けましたが、長女が高校生になった頃、家の中に新選組の本がやたらに増えてきたのです。聞くと沖田総司のフアンだそうで結果的に大出さんが編集した新選組の本の殆どは長女が少ない小遣いで買ったもの、今頃になって私が「新選組」ものを書く資料の一部に使っている次第です。大出さんとはもっと妙な縁があるのですが、ここでは割愛して将来機会があれば懺悔します。ここでは、大出さんの主宰する「新選組友の会」や新選組に関するこぼれ話などをご紹介させて頂きますが「乞うご期待!」と、大出講師に成り代わって大見得を切っておきます。

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    JR板橋駅前・寿徳寺・近藤、土方、永倉&新選組墓地です。

 ◆名著再見
永倉新入『新撰組顛末記』

             大出 俊幸

 新人物往来社に移って〝さて、どんな本を作ろうか〃と思案している時、尾崎秀樹さん(大衆文芸評論家)から「いちど遊びにいらっしやい」と声をかけられ、保谷市(現・西東京市) の都営住宅にお伺いした。一階は居間と台所、二階の二間は本であふれ、階段にも本が積み重ねられていた。
尾崎さんはどこかに電話されていて、待っている間、私は本の背表紙をずっと目で追っていた。ふと『永倉新入』と書かれただけの本が目にとまった。棚から引いて、パラパラとめくっているうちに、「あれ!」と思った。なおも頁を追って読んでいくと、池田屋に突入した場面が出てきて、自分の刀が折れ、落ちている刀を拾ってなおも戦った。
手ほ血のりでヌルヌルしていたとある。
大学の四年間、京都で過ごし、池田屋は佐々木旅館という修学旅行の宿屋になっているとだけ聞かされていた。うかつなことに新選組の隊士は幕末に皆な死んで、まさか大正年間まで生きていた人がいたとは思ってもみなかった。
早速、借りて帰ってタイトルを『新撰組顛末記』と変えて、装丁も新しく、全国の書店に並べた。いまも新人物文庫の一冊として、売れつづけている。私と新選組の出会いはこうして始まった。  (大出俊幸)

 新選組友の会ニュース149掲載