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十三、同盟軍の陣容、回復-1

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー14

生江昌平

十三、同盟軍の陣容、回復-1

五月三日、正式に奥羽二十五藩の「奥羽列藩同盟」が成立、大政官への建白書及び各藩の連盟約束書に各藩はそれぞれ記名調印する。四日
には各藩軍議し、その部署を定めた。その部署ha
会津藩朱雀三番土中組中隊頭・上田八郎右衛門一中隊、小池帯刀土工兵百人余率いて大平方面に陣し、羽太村を本営とし、米村阿武隈川に
沿って守備を厳にする。
総督西郷頼母は二番砲兵頭・高橋棒大輔、朱雀四番寄合組中隊頭・木本内蔵丞、会義隊長・野田進、青龍一番足軽組中隊頭・杉田兵庫、誠
忠隊長・坂平三郎らの隊を率いて「上小屋」に陣営。
仙台方面には仙台藩増田歴治、二本松藩丹羽丹波、会津藩義集隊長・辰野源左衛門、同隊一番小隊頭・望月新平、二番小隊頭・国府辰次郎、三番小隊頭・諏訪豊四郎、四番小隊頭・諏訪左内、五番小隊頭・小橋弥市、六番小隊頭・黒河内友次郎、七番小隊頭・今泉伝之助、八番小隊頭・井口源吾等、各兵を率いて「矢吹」に陣営。
会津藩朱雀一番土中組中隊頭・小森一貫斎、青龍一番寄合組中隊頭・木村兵庫、純義隊宮川六郎及び相馬・棚倉藩の隊は「金山」方面に陣営。
仙台街道の和田山、泉田に塁柵を設け、仙台藩陣将・中島兵衛之助、上新条に本営を置き、愛宕山、八幡台に守兵を出す。
会津藩上小屋本営より衛兵二小隊を出し、別石、二枚橋の要衝を交替で守る-と定めたが、奪還戦は後日に持ち越された。


十二、第二次白河戦争-2

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー14

十二、第二次白河戦争-2
生江昌平

白河城の会津軍総督西郷頼母は、馬を馳せて叱咤激励するも、潰乱制すことできず、決死進んで敵軍を衝かんとするが、朱雀一番土中組隊
小隊頭・飯沼時衛が轡をとって「総督は今此処で死するのは時に非ず。宜しく退いて後図を計るべし」と諌める。頼母は聴かず、飯沼時衛は馬首を北にして鞭をうつ。馬は向寺の方面に走り、滑川に至る頃、敗残兵集まる者、僅かに三小隊に過ぎなかった。遂に勢至堂に退いた。
新選組は勢至堂に退き、翌二日に三代に転陣する。三日、会津藩土成田助九郎と新選組隊士が郡山八幡村へ取締と称して出張している。勿
論探索を兼ねていたものと思われる。
負け続けた会津軍は寄合組中隊頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、土中組半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞等の諸将校、皆相前後して戦死、会津藩は三百五十余人の戦死者といわれている。同盟軍戦死者六百八十二名(一説に七百十二名)、西軍の死傷者七十余名、僅か七百余名の兵力で三千名に近い大軍を撃破し、白河城を奪った。

この日、二本松兵七百人及び会津藩士坂十郎は、一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率いて須賀川を発し白河へ向かう途中、砲声を聞き、馳せ
て会戦せんとするも及ぼず、中新城に退く。敗戦後、仙台、二本松藩は矢吹、須賀川に陣し、会津藩は長沼、勢至堂、三代に退いた。西軍ほ
白河城に入城した。

白河藩町方会計掛・石井重石衛門(白河藩御用達・荒井治長石衛門の実弟)は、五月一日戦争後は大越又右衛門(甥)と共に会義隊に入隊
し勢至堂ロの守備に当たる。


十二、第二次白河戦争-1

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー13

十二、第二次白河戦争-1
生江昌平

五月一日寅の上刻(午前四時)、西軍兵を分ちて三道より白河を襲う。薩摩五番隊、長州三番中隊砲二門、大垣一中隊砲一門、忍藩一小隊本道皮寵(かわど)村より進む。薩摩二番隊、四番隊砲一門、白河城束の間道より進み、大垣一中隊皮寵村の東の山林の間道より兵を進める。芦野、大田原には忍藩四小隊を留めて守る。
西軍徐々に砲戦して進む。稲荷山前面に現れ大砲小銃を連射する。会津藩一柳四郎左衛門、今泉伝之助、井口源吾、新選組山口次郎等、稲
荷山に登って兵を督して応戦奮戦する。
会津藩副総督・横山主税自ら采配を振って衆を励まし、稲荷山に登るや、弾丸に当たり斃れる。戦い猛烈で遺骸を収める達(ひま)もなく、従者板倉和泉が僅かに首を搔くして退く。
卯の上刻(午前六時)西軍、棚倉口桜町より大砲小銑を頗る烈しく発砲、守る純義隊以下の諸隊殆んど危うし、鈴木作右衛門、小森一貫斎、平田弾右衛門、兵を左右に分かち、西軍を包囲せんと、兵を指揮して砲戦するも、遂に利なく、仙台藩兵は根田、小田川方面に退き、その他は市街に退くが、混乱状態に陥り、収拾つかずの状況であった。
西軍原方方面も急撃する。日向茂太郎、井深右近等よく戦い、西軍少し退く。会津軍益々進んで追撃し、長山の麓に至る。西軍左右の森林
に伏せていた兵が攻撃する。退いてきた兵も返戦し三方より猛撃する。仙台藩陣将佐藤宮内、坂本大炊が赴き反撃する。坂本大炊、阿武隈川
を渡って西に進む、その時弾丸飛来して頭を貫き集れる。仙台陣将瀬上主膳、兵を励まして戦う。会津藩日向茂太郎隊長も討死する。同盟軍
支える事叶わず、米村の堤防に拠って戦うも、砲兵十余人皆朱れ、頗る苦戦となる。陣将鈴木義登は日向茂太郎の遺骸を収めて、大平方面に
退く。


 十一、第一次白河戦争-3

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-12
(新選組友の会ニュース118号より)

十一、第一次白河戦争-3

生江 昌平

白河を守る同盟軍は、会津藩一千余名、仙台藩一千余名、二本松・棚倉勢らを加えて二千五首から三千名、砲約十門(会津二、仙台六、棚
倉二)である。
白坂口には会津藩一柳四郎左衛門、今泉伝之助、井口源吾、杉田兵庫、新選組山口次郎らが守る。稲荷山には塁を築き、主として仙台兵(砲六門)が守る。
原方口には会津藩日向茂太郎・砲二門、井深右近等各兵を率いて守る。且つその支樺点として申し分のない立石山の独立岡阜を中心として、七個の墜塁を築いた。
棚倉口桜町方面に会津藩遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小森一貫斎、純義隊小池周吾。仙台藩瀬上主膳、棚倉藩平田弾右衛門らが当った。
攻める西軍は二十九日白坂に於いて軍議を持ち、正面白坂口は陣地堅固のため、火砲を集中して同盟軍を牽制し、その間に一部の兵ほ左翼
より迂回、包囲攻撃をする-と三方面からの攻撃を定めた。
右翼隊は薩藩川村四番隊、村田二番隊、携臼砲一門。白坂郷士・大平八郎を道案内とし、遠く旗宿方面より迂回し、棚倉道より黄泉坂を経
て雷神山方面に進出し、同盟軍の左翼を包囲攻撃する。兵力二百余。攻撃は午前四時とする。
中央隊は薩藩大山二番砲隊(砲二門、二十栂臼砲一門、兵具隊半隊)、忍藩一小隊と砲一門(薩摩の直接指揮下に入る)、長藩三番隊の一小隊と砲一門、大垣藩長屋益之進の二隊、これは敵陣地の正面小丸山付近を占拠し、その砲兵団を利用して敵の正面を牽制する。また偽隊旗(偽の旗)を多く山上に立て、恰も正面に優勢の兵力あるかの如く歎す。兵力百五十余。攻撃ほ午前八時とする。
左翼隊は薩藩大野津七左衛門五番隊、二番砲隊の砲二門、長藩二番隊及び三番隊の一小隊、大垣藩二隊と砲一門にして、白坂より黒川を経
て原方街道より立石山を攻略し、その右翼を包囲攻撃する。兵力三百余。攻撃は午前六時とする。     つづく
(つづく)

 十一、第一次白河戦争-2

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-11
(新選組友の会ニュース118号より)

十一、第一次白河戦争-2

生江 昌平

閏四月二十六日、会津藩西郷頼母一行、白河城に入る。
○東方面藩鎮撫総督西郷頼母、副総督横山主税、小森一貫斎、進んで白河の鎮撫に入城せらる。時に城内には会義隊、新選組、純義隊、青龍一番土中半隊、朱雀一番足軽隊、それぞれ隊長の面々もある。其の中に朱雀足軽隊長日向茂太郎、原方街道押えに向うべきの旨にて、長山に塁壁を築きて、大砲を仕掛けて待つ。其の外、白河内地へ外れ、白坂口或いは棚倉口市町の末に、適柴火を燃やし番兵を配る。ここに於いて純義隊小池周吾、軍目宮川六郎、新選組隊長役山口次郎等、敵は芦野に有り、然らば境明神へ外張りを設け、白坂迄も遠索伏聴を遣わし戒厳せざれば、此の白河城を持つこと不能と、頻りに陣将西郷頼母へ建白す。其の外、大越又右衛門も、此の事を以て野田進へ迫って建白すれども、此の策遂に不行。(『若松記節略』)
藩兵の数に奢ったのか、西郷頼母は山口次郎ら数人の「境明神から白坂口まで」の防禦線構築の提案を無視したのである。
二本松藩は白河応援のため、二十七日番頭丹羽右近・高根三石衛門・軍事総裁家老丹羽丹波の組、銃兵六個小隊が派遣され、同日夜、本宮
に宿陣した。二十八日白河へ出立の所、先の須賀川には仙台勢が宿陣していたので、笹川・日出山南宿へ宿陣した。この日は仙台勢・棚倉勢
が白河城に入城していた。二本松勢は五月一日に須賀川を立ち、矢吹まで進んだところ、白河城が同日西軍に占領されたとの報に接し、笹川
まで退き宿降した。閏四月二十八日、仙台藩参謀・坂本大炊以下、白河に到着し、横向の一柳四郎左衛門らも入城する。棚倉藩平田弾右衛門
が一小隊を率いて到着し、兵益々勢い盛んとなる。
一方、二十九日、奥羽列藩同盟加盟の諸藩士、新選組も布陣稲荷山の遠望仙台の外人屋で会津藩土手代木直衛門、小林平角らも列席し、二十一日に調印された盟約書の修正がなされた。大国の強権を否定し、同盟諸藩の衆議による義務や制約が打ち出された。
この日、西軍の白河来襲の報があり、守兵は棚倉ロ・白坂口・原方街道に出陣するが、西軍は白坂に止まる。白坂口守備の新選組は、援軍
到着に仙台藩兵と交代して城下の脇本陣柳屋に休陣する。


十一、第一次白河戦争-1

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-10
(新選組友の会ニュース118号より)

十一、第一次白河戦争-1

生江 昌平

閏四月二十二日、奥羽列藩、白石で会議の上、盟約書に調印、庄内追討を求める鎮撫総督府に対して、連署して解兵届を提出。翌二十三日、諸藩の重臣が白石に会して同盟を協議し、福島に軍務局を置き、西軍を討つ策を定め、仙台藩相但木土佐は仙台城で軍資金、糧食、兵器、 弾薬等を掌り、同坂英力は福島の軍務局(長楽寺)にあって専ら攻守の指揮を掌る。会津もま た陰にこれを協力する-などを定めた。
閏四月二十四日、間諜が薩摩・長州・佐土原藩兵、今朝大田原を発し、今夜芦野に宿すと報ずる。鈴木作右衛門、木村熊之進、小池周吾、 野田進、新選組山口次郎らは戦略を定め、白坂口へ新選組を先手とし、遊撃隊がこれに次ぎ、棚倉ロへは純義隊、原方街道へは青龍一番隊が これに当たり西軍を待つことに決する。

閏四月二十五日暁天、芦野の西軍襲来し、白坂関門へ攻撃する。
○遊撃隊遠山伊右衛門、新選組山口次郎ら、隊兵を励し、透間もあらせず打ち放せしむ。
大平口の日向茂太郎も、米村迄出兵屯居せし折節なれぼ、此の砲声を聞き、俄に進んで白坂口の横合いより応援して砲発す。大砲隊樋口久吾 は白河九番丁より進み掛けて白坂口にて苦戦す。
棚倉口の方よりは小池周吾、原方街道よりは鈴木作右衛門が討って掛り、苦戦のところへ、また横合いより義集隊今泉伝之助、井口源吾等、歩兵を率い励まして砲発す。薩藩、長藩、大垣また忍四藩の兵、芦野より進んで皮寵原にて散兵となって進みしに、会津軍も三衝(く、ぐ)五路に分って敵の至るを待ち掛けたれぼ、西軍三面に敵することを不得ず、総軍引揚げの撤を飛ばして引揚げたり。会津軍境明神に限りに追撃せしめ、軍を白河に凱旋す。斬獲の首級を梟木に掛く。(『若松記』)
二十八日に白河に入った仙台藩士・大槻安広が城門の梟首と立て札を目撃している。
この日の戦いで、新選組隊士菊池央(たのむ)が戦死する。二十二歳であった。白河皇徳寺に墓がある。
墓標表面には誠忠院義勇英銀居士、側面に菊池央五郎と刻まれている。また元新選組で御陵衛士の清原清(武川直枝)は薩摩藩兵として戦死 している。白河城の隣の鎮護神山の薩摩藩士の墓にその名がある。

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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
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十、会津藩、白河城を奪取

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-9
(新選組友の会ニュース118号より)

十、会津藩、白河城を奪取

生江 昌平

○閏四月十六日、会藩始めて兵を大平方面に進む。純義隊長小池周吾、会義隊長野田進、新選組隊長役山口次郎、出て真名子村に陣す。
野田進、内村砂次郎、潜行して白河、棚倉地方の探るに、仙台、l一本松、棚倉、三春、泉、湯長谷各藩の兵、白河城守り、世良修蔵、本
丸に在り-(『七年史』)
※「純義隊」は会津藩士・渡辺綱之助(小池周吾)が、旧幕直参有志らと江戸に於いて結成(二九七人)、四月十二日、江戸より国府台へ脱出し、旧幕回天隊、誠忠隊と岩井で西軍と戦い、その後大鳥圭介、土方歳三らと合流し、安塚、宇都宮、今市で戦い、閏四月四日会津西街道山王峠下で会津藩若年寄・山川大蔵一行と出会い、田島で部隊の再編が行われ、第四大隊となって白河口応援に出立したのである。
「会義隊」は徴募で編成され、隊士七十名。これらの会津陣営は、仙台藩家老より、西軍が大原からいよいよ白河へ侵軍の動き急なるを聞
き、白河城攻略のための出陣となった。
○閏四月二十日暁七ツ頃(午前四時)、会津兵数百人、白河米村ロなる仁井田町木戸より砲発して打入り、会津町・道場町へ一時に放火し、且つ城内へ向け砲発しければ諸藩の兵敗走し、白河城守りの二本松兵避けり。此の時、白河城に火移り半焼せり。防戦の者更に無く、右往左往と散りせしへ会藩難なく乗っ取りたり。        (『東白川郡沿革誌』)
○容保は哀訴嘆願の益なきを知り、田中左内等に兵三百を附し、旧幕の兵と共に勢至堂を経て白河を略せしむ。
閏四月二十日左内等白河に達し俄然火を道場町に放ちてこれを接芽、一挙して城を抜く、諸藩の兵驚愕狼狽、城に火して散乱す、然るに此
の時にあたり、奥羽同盟略成りたるの報に接しけれぼ、諸藩の兵再び来たり、左内等と共に西軍を拒止(やくし)せんと、各々兵を部署して西軍に備える。西軍これを聞き、二十一日大田原を発し、塩崎、油井(旧幕第一大隊と戦)、関屋(塩原守備の会津藩兵と戦)の東軍を撃壌しつつ、二十四日、東野を経て皮龍原に達す。
(『会津戊辰戦争』)
新選組の中島登は「廿一日、白河城に向う。
此の目白河城落ちる。廿二日城下に宿降す」と記しているが、二十日の間違いである。それとも何かの都合で中島は一日後れたのだろうか。

白河城は奥羽鎮撫総督府の下にあったが、二十日早朝、会津軍が攻め、守衛の二本松、平、泉、三春の四軍はあまり抵抗もせずに本丸に火をかけて敗走した。これら四藩は事前に会津に同調し打合せ通りの行動であった。火は城の建物はもとより民家も焼いたが、町民は概ね歓迎の様子である。参謀・世良の部下の三人は白河から脱走したが、全員が死す-とあり、殺された長州藩士の墓は福島・柳町宝林寺に在る。さらに白河を奪った会津軍は、自らの管理体制を敷いた。


九、世良修蔵、斬殺される-2

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-8
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

九、世良修蔵、斬殺される-2

四月十九日、米沢藩主・上杉斉憲、仙台藩主・伊達慶邦は、連名で鎮撫総督九条道孝に時局紛糾を訴える書面を提出し、藩兵の解兵を求めた。総督府より次のような返書が寄せられた。
○            仙台中将
米沢中将
会津容保降伏謝罪の儀歎願の趣き、京都へ申すべき候間、追って何分の沙汰有の迄は、其藩諸攻口出張兵少々番兵差置き、自国の境内へ引退候事。
但、白河口近辺、諸口会境外において、浮浪の者共会藩と偽り、農家へ押入り、金銀盗取り或いは所々屯集御領等へ、種々廻書杯致し
候由相聞き候間、探索の上、守衛兵を以て早々掃壌いたすべく候共、尚会藩よりも精々取押え候様、手堅く相違候事。
辰閏四月
総督府
(『仙台藩記』から)
この日、会津追討を命じた世良修蔵は、仙台藩の戦意の低さを激高し、急遽白河城から白石の総督府へ向かった。途中、総督府参謀・醍醐忠敬と会談ののち、福島の妓楼・金沢屋に投宿、秋田口方面にいる下参謀・大山格之助に手紙を記す。
手紙の内容は、会津藩謝罪の嘆願書を
受け取った以上、返却するわけにもいかないので仕方ないが、一、二年のうちに奥州全土が敵になるという「奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく」「仙米賊、朝廷を軽んずるの心底」「弱国二藩は恐れるに足らず、しかし、会津を合わせた時は始末が難しくなる」「手紙ほ福島藩足軽に頼み持参致す候。中も疎に候へども、御覧の上御投火下され候」等々記されていた。あまりの執拗な念押しに不審を感じた足軽は手紙を福島藩士に見せ、更に世良暗殺を計画する仙台藩士の知るところとなり、一同激怒。宿泊先の金沢屋で掃え、翌日(閏四月二十日)、世良修蔵を阿武隈河原で斬殺し、居合わせた会津藩士・中根監物、辰野勇は世良の髷(まげ)を切って国元へ持ち帰った。仙台藩は情勢の不安定を口実に、鎮撫総督九条道孝を仙台へ招き、保護下に置いた。この世良斬殺が奥羽諸藩が西軍との戦いに参戦するきっかけとなった。墓は白石・陣馬跡に建つ。

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お知らせ

第42回土方歳三忌
日 時:平成29年(2017年)5月13日(土)
法要11:00~
講演会14:00~
場 所:
墓前法要 石田寺
東京都日野市石田1-1-10
(多摩都市モノレール満願寺駅下車・徒歩7分
京王線高幡不動駅下車・徒歩15分)
講演会 高幡不動尊金剛寺 信徒会館
東京都日野市高幡733
(京王線高幡不動駅下車・徒歩5分)
講師 権 東品氏(新選組刀剣研究家)
「土方歳三の愛刀について」
会 費(講演会のみ):おひとり 2000円 (記念品を含む)
※ 墓前法要のみ参加の方は、無料です。
※ 当日、直接申込みも可能です。
※ 事前申込みされた方は、領収書をご持参ください。
参加申し込み方法は、新選組友の会HPからお求めください。
http://tomonokai.bakufu.org/

 

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第14回 近藤勇忌
日 時:平成29年(2017年)4月9日(日)
法要13:30~
講演会14:30~16:00
場 所:
法要 長流寺
千葉県流山市流山6-677
(流山電鉄線平和台駅下車・徒歩10分)
講演会 流山市福祉会館
千葉県流山市流山2-102
(流山電鉄線流山駅下車・徒歩約5分 長流寺から・徒歩3分)
講師 松成 武治氏(元文藝春秋編集者、司馬遼太郎「燃えよ剣」担当者)
「『燃えよ剣』が最良の司馬遼太郎作品です」
会 費(講演会のみ):おひとり 2000円 (記念品を含む)
※ 法要のみ参加の方は、無料です。
※ 当日、直接申込みも可能です。
※ 事前申込みされた方は、領収書をご持参ください。
参加申し込み方法は、新選組友の会HPからお求めください。
http://tomonokai.bakufu.org/

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九、世良修蔵、斬殺される-1

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-7
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

九、世良修蔵、斬殺される-1

閏四月十一日、白石で仙台藩主・伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲が会津藩謝罪について面談。
翌十二日、両藩主ほ岩沼の鎮撫総督・九条道孝に拝謁して会津救解の嘆願書を提出し受理された。また白石城に於いて奥羽諸藩による列藩会
議が開かれ、会津救解の嘆願書に署名している。
会津藩家老・西郷頼母、梶原平馬、一瀬要人の哀訴状も提出されている。
閏四月十三日、鎮撫総督九条道孝、嘆願書を受けて副総督の沢為量、参謀の醍醐忠敬、世良修蔵に書面を発してその可否を問うた。これに
対して世良修蔵は
○…一旦、総督府に於て嘆願書を受理したる以上は、これに対し確乎たる指令なかるべからず。乃ち容保は朝敵、天地容るべかざる罪人なれば其の降謝を許さず、各藩速やかに進撃奉功すべしと指令せられるべし。諸藩、これを見て必ず不服沸騰すべきも、一時を糊塗し、而して愈転陣の後は西軍陸続群致すべきを以て、更に軍議を開きて進軍し、賊を塵殺すべし。       (『会津戊辰戦史』より)
世良はあくまで「賊を塵殺」することを主張し、十七日には強硬な命令が下されることになる。
○今般、会津謝罪降伏書並に奥羽各藩歎願書差出し熟覧の処、朝敵不可入天地之罪人に付、難被及御沙汰、早々討入りべき奏成功者也。
鎮撫総督
(『会津戊辰戦史』から)
これを受けて仙台藩は世良参謀殺害を固めたという。
閏四月十四日、長沼出張の仙台藩士・佐藤宮内、同所警備の会津藩士・木村熊之進より世良修蔵殺害計画を聞き、白石の大越文五郎に報告、但木土佐との協議のうえ殺害を容認されている。
閏四月十七日、下守谷村で二本松・仙台・会津三藩による会議が行われる。会津藩の白河城攻略、世良修蔵暗殺などを話し合ったものと思
われる。
翌十八日、仙台藩士坂本大炊・遠藤久三郎が白河城に赴き、世良と面談、会津謝罪の嘆願書取り上げと解兵を訴えている。
一方、仙台藩士佐藤宮内、大越文五郎らは、かねてより世良の悪意に出る命令と横暴な態度に憤り、福島で世良修蔵暗殺を協議している。
また仙台藩士瀬上主膳は世良修蔵の福島訪問を知り、姉歯武之進・岩崎秀三郎とともに土湯口の陣より福島軍務局(仙台藩軍務局、後に同盟
軍の軍務局となる)へ出立した。

 


八、新選組、白河ロヘ出陣

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-6
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

八、新選組、白河ロヘ出陣

閏四月五日(現在でいえば五月下旬)、新選組は白河ロへの出陣が命じられ、土方歳三と共に城に上がり、松平容保に拝謁し、金子を受領
する。
○新選組隊長役山口次郎被命、当隊百三十余人を率て白河方面へ出張の命下る。当隊会公に謁す。公賜に金若干を以す。
(『中島登覚書』より)
土方は新選組の指揮を斎藤一(この時は山口次郎を名乗っている)に命じている。
閏四月六日、新選組、城下を出陣して赤津に宿陣、翌七日、三代に至り滞降する。十四日間の滞陣となる。奥羽二十四藩の列藩同盟の和平
接渉の返答待ちにあったためであると思われる。
『戊辰戟争 会津東辺史料』に、内藤隼人(土方歳三)が郡山西部地方の八幡村へ閏四月十四日夕より同二十四日朝迄上下七人、五人(断続)、御馬壱疋。大槻村に閏四月二十四日昼より十人。只野村へ閏四月二十四日昼より翌二十五日昼迄、上下四人-とあるが、土方はこの時はまだ城下清水屋・東山温泉などで治療中、恐らく山口次郎らの幹部が内藤隼人預り(家来)と云っていたのではないかと思われる。
新選組は三代に滞陣中、隊士の名簿を残している。湖南町・石井郁家文書にある。月日は記されていないが、閏四月から五月頃といわれて
いる。

隊長役    山口 次郎
副長役    安富 才輔
軍 目    島田  魁
同     久米部 正親
歩兵差図役
(頭取改役兼務)近藤 隼雄
歩兵差図役  尾閑 雅次郎
同     田村 一郎
同什長    木下 厳
同 断    近藤 芳助
同 断    横倉甚五郎
大砲差図役  吉村芳太郎
歩兵差図役下役 大橋半三郎
同     千田 兵衛
同     阿部 隼太
同     鈴木連三郎
同     三品 二郎
大砲警備隊下役 白戸 友衝
同     天海勝之助
同     田中 律造
寵 役    梅戸勝之進
同     漢 一郎
隊長附    中島  登
同     小堀誠一郎
同     和高虎之助
同     吉田俊太郎
同     池田七三郎
同     円尾桂次郎
同     新井破摩男
同     田村六五郎
同     清水 卯青
同     松本 葉輔
器械方頭取  斎藤 秀全
〃 下役  立川 主税
〃 下役  高田文二郎
医 者    大官 友賢
歩兵小頭取締役 河合弥三郎
歩兵小頭役  加藤 定吉
同     鈴木 乙治
同     中村 清七
同     西沢 義吉
同       同     藤本吉之助
同     永田鎌三郎
同     岸田 兼吉
同     林 久吉
同     黒川 佐吉

歩兵五拾人
小者 九人
別当 三人
右の通三代駅に滞陣罷在り候

※湖南町三代の正福寺に新選組隊士松本善次郎の墓がある。「池田屋騒動」に参戟した古参隊士松本善次郎は、甲州鎮撫隊として甲州勝沼の
戦いに敗れ、江戸で近藤勇らと挟を分かち、長倉新八が創設した靖共隊に加盟するが、その後、新選組に復帰し白河の戦いに参戦したようである。しかし、いつの白河戦争で負傷したのか、寺の話では「白河の攻撃」で負傷し、勢至堂から三代に退き、寺の薮に集れていたところを助けだされ、手当てを施すが、その甲斐もなく八月十七日、正福寺で亡くなったという。三代滞陣の新選組名簿にその名がないのは、既に新選組を離脱して臥床にあったからであろうか。