投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

新選組外伝 第十一話 近藤勇・板橋にて斬首

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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組友の会ニュース発行者・大出俊幸

〒270-0116千葉県流山市中野久木572-44
電話0471-53-3506 友の会入会希望者はお問い合わせください。

新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第十一話

近藤勇・板橋にて斬首

上野・東京国立博物館の正門を左に30メートル歩くと、重厚な武家屋敷門が見えてくる。もとは千代田城下・丸の内にあった因州藩邸。慶応四年四月二十四日、岩倉具視(ともみ)の三子・東山道鎮撫(ちんぶ)総督岩倉具定(ともさだ)は夕方、板橋から因州藩邸に入った。岡田家の武術指南役・横倉喜三次(きそうじ)も従った。翌二十五日正午ごろ、板橋より早駕寵があり「御預かりの大久保大和は死罪、ついては横倉喜三次に太刀取りをするように」との使いがあった。
横倉喜三次は急いで板橋に帰った。
刑場となったのは馬捨て場といわれる広場。中央に近藤勇は黒羽重に黒の紋付、羽織を着て座り、下役人が腰綱を持っていた。 近藤の前には穴が掘られ、周囲を監察方をはじめ兵士、牢役人が厳重に取り囲んだ。近隣の屋根の上、土手の上は見物人でいっ
ぱいだった。
横倉喜三次は近藤に最後の挨拶をし「私が太刀取りを命じられました。何か申しおかれることがありましたら承ります」というと、近藤はことのほか喜んで、「君の太刀取りならば何も申しおくことはありません。よろしくたのみます」と言った。
斬首の場面を陰から見ていた勇の甥・宮川勇五郎は「丈の高い方の人は『やっ』というと一太刀で斬りましたが、誠に見事な腕前でした」と語り残している。首が斬られる瞬間、勇の体が立ち上がるようにして前に倒れ、首穴にかかる橋のようになり、穴に落ちた首には血がかからなかった。

参謀北嶋仙太郎は首実検のあと、近藤の首級(しゆきゆう)を白木綿で巻き、アルコール漬けにして箱に入れ因州藩邸に送った。岩倉具定による検分があった。勇の首は京都に送られ、三条河原で三日間梟首(きょうしゅ)にさらされた。勇の首が描かれた号外の瓦版が五月の京の空に舞っていた。


新選組外伝 第十話

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大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第十話

大久保大和は近藤勇であると証言した男

京都東山・天皇家の御  さん
陵で知られる泉湧寺(せんにゆうじ)は錦繍に彩られ、慶応三年、禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)となった伊東甲子太郎、鈴木樹三郎兄弟(石岡市出身)ら一統が歩いたであろう参道は足音のみが空に吸われて行く。
伊東甲子太郎ら四名は京都油小路で凍てつく冬の夜、近藤、土方側の手によって惨殺されたが、その残党、加納鷲雄(かのうわLお)、武川直枝(もとかわなおえ・もと清原清)が薩摩軍の探索方として、板橋総督府に出陣していた。
流山から越谷を通って板橋本営に送られて来た近藤勇は本陣・飯田新左衛門方に収容され裁判を受ける。あくまで大久保大和と称する人物の首実験役に、抽小路の激闘を生きのびた加納、武川が指名された。それでも近藤は恐い。障子の穴からそっと見ると、果たして近藤勇だ。会うにしても刀を持っていては危ないから、双刀をとりあげてもらい、識役(しきやく)平田九十郎立ちあいのもと近藤の前に出た。
「大久保大和、改め近藤勇、と声をかけますと、近藤は実にエライ人物でありましたが、その時の顔色は今に目につくようで、
はなはだ恐怖の姿でありました」(加納鷲雄談)。
のち、豊田市右衛門方に収容され、岡田家武術指南役の横倉喜三次(きそうじ)の書き残した覚書によれば、近藤勇は足枷(あしかせ)の上、入牢。
流山からついて行った野村利三郎、近藤の助命嘆願の手紙をもって江戸から駆けつけた相馬主計はともに縄を打たれ、別々の牢に収容され、昼夜、厳重に取り締まられていた。
横倉喜三次は、近藤の右肩の傷を気づかって、たびたび近藤のもとを訪れ士道談義を重ねた。近藤は「いろいろお世話になったが、何もお返しすることが出来ない。せめて腰刀を」と感謝のしるしに愛刀を贈った。
いずれ、首斬り役となる横倉に、この刀で首を刎ねてもらいたいという暗黙のサインを送ったのだった。
(文/大出俊幸)
近藤勇と新選組隊士供養塔(寿徳寺管理・北区教育委員会提供)


新選組外伝 第九話

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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

(写真は新選組屯所本陣・金子邸母屋)

新選組外伝 第九話

五兵衛新田から脱走した大石鍬次郎の斬首

NHK大河ドラマ「新選組⊥も佳境に入った頃、流山での近藤勇・土方歳三の別離が放送された。いくつかの名場面のうち、堺雅人演ずる山南敬助の格子越しの恋人・明里との今生の別れと”局を脱するを許さず〟という新選組の掟に触れて、前川邸の一室で沖田総司の介錯により切固否定、裁判
腹する場面は歴史の非情と人生の哀愁を伝えて視聴者の胸をうった。
五兵衛新田(足立区綾瀬)で兄・市村辰之助に脱走を呼びかけられた少年兵・市村鉄之助は隊に踏みとどまり、土方歳三と行をともにするが、勘定方の大石鍬次郎、三井丑之助と市村辰之助は脱走した。今までに脱走した新選組隊士は次々と追捕され、切腹させらているにもかかわらず・・・。
三井丑之助は東北‥日河の戦いで西軍に投降し、西郷隆盛の助力で薩摩藩に身をあずけていた。大石鍬次郎は東京に潜伏していたが、生活に困り、共に脱走した三井の誘いもあつて頼って行ったところ突然逮捕された。
刑部省に連行され、坂本龍馬殺害の嫌疑で執拗に尋問されるが龍馬暗殺の関与を断固否定、裁判をを切り抜けたかに見えた。が、京都新選組のころ分離した、高台寺党の首魁・伊東甲子太郎を奸策によって惨殺した一件の罪により、伝馬町の牢屋敷の刑場で斬首された。ともに五兵衛新田から脱走した仲のよかった三井丑之助を信頼したばかりに、まさかの友の裏切りで命を落とす羽目に陥った大石鍬次郎の生涯も哀惜あまりあるものがある。

 


新選組外伝 第八話・市村鉄之助

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大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第八話
もう一人の少年兵・市村鉄之助

生前の司馬遼太郎氏にある記者が「先生は御自分の作品のなかで何が一番お好きですか」と聞いたことがある。司馬さんはしばらく考えて「ひとつというのはむつかしいので、二つにさせて下さい」といって、『空海の風景』と『燃えよ剣』をあげた。
その『燃えよ剣』を読んでいて気になったことがある。土方歳三の小姓・市村鉄之助が歳三の命を受けて辞世の短冊と歳三の写真を届けに日野に来た、とある。いかに司馬さんでも、そこまで想像で具体的には書けないだろう。
現に歳三の写真が佐藤家に残っているのだから、と思い昭和四十六年晩秋、歳三の姉のぶの嫁ぎ先・佐藤彦五郎の曾孫.佐藤量氏(故人)を訪ねた。
「大出さん、ちょっと二階へ」といって本棚の裏に隠してあったウィスキーをすすめながら「籬蔭(りんいん)史話」と題された三冊の和綴じ本を見せて下さつた。表紙に「不許他見」とある。パラパラと拝見していると、箱館で土方歳三が写真と書付をもって日野に届けるよう市村鉄之助に命じる場面が目に入った。佐藤さんはこの家伝は誰にも見せていない、という。私が「ただ一人見せた人がいるでしょう」というと、小さな声で「司馬先生に見せました」と。私は早速甲聞きがき新選組』と題して刊
行した。
市村鉄之助は大垣の人。慶応三年秋、十五歳で兄・辰之助にさそわれ新選組に入隊。鳥羽伏見、甲州勝沼と戦い、五兵衛新田(足立区綾瀬)に集結したある夜、兄・辰之助に脱走を話しかけられる。が鉄之助は踏みとどまった。
その後、脱走した兄の汚名に耐え、歳三に従って函館まで戦いつづけた。
「頗(すこぶ)る勇気、性亦怜悧(れいり)」といわれた少年兵・市村鉄之助にとって、流山は人生の岐路であった。
(文/大出俊幸)


新選組外伝 第七話

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大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第七話

浅間神社に翻(ひるがえ)った菊の御紋旗

今年の「広報ながれやま」山月一日号に載った恩田家文書は、全国の新選租フアンに衝撃を与えた。これにより、流山での新選組の動きがより鮮明になつてきた。長岡屋に向かった兵たちは浅間神社裏手に「御かんぐん(官軍)方大将、菊の紋付きたるはた(旗)お(押)し立て陣取り、江戸方へ(の)本陣長岡の方へ大砲をむけ置く」と新選組を包囲した。
思えば半年前、慶応三年十月十三日早朝、岩倉具視(ともみ)は子の具定(ともさだ)と八千丸を公家・中山忠能(ただやす・明治天皇の祖父)邸に使いに出した。中山は元服前の八千丸の下着の背中に書類を縫いつけ帰るように言うが、八千丸が門を出たところに新選組が見張っていた。が、子どもだから、と見のがしてしまった。その文書は「徳川慶喜をてん戮(てんりく)せよ」と書かれた偽の詔勅だつた。この長州藩にあてた詔勅を届けるべく、大久保利通(としみち)、広沢兵助らが大坂から出
する直前、大八車に緞子(どんす)を積んで祇園一力のおゆう(大久保の愛人)が駆けて来た。
大久保は緞子を山口の諸隊会議所の二階に運びこみ、長州の学者・岡??春に錦の御旗を作らせた。
日月を表す錦旗と菊の御紋旗十りゅうは一ケ月後の鳥羽伏見の戦いに天皇旗として翻った。そして、中山邸に使いに行った兄・具定はいまや新政府東山道軍の総督として板橋にあり、先鋒・香川敬三隊が、岩倉・大久保の策謀によって作られた三メートル六十センチの菊の御紋旗を押し立てて浅間神社に陣を敷いたのだ。
(文/大出俊幸)
ー錦旗赤地菊紋牡丹誓文様緞子(仙台市博物館提供)


新選組外伝 第六話

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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第六話

少年兵・田村銀之助の数奇な運命

先年、流山市文化会館で「ラブ・レター」が上映された折に監督の森崎東さんが撮影にまつわるお話をされた。
森崎さんの兄上・森崎湊(みなと)氏は昭和二十年八月十六日未明、三重の三重海軍航空隊の寮から脱走し、夜明けの浜辺で
割腹自決した。二十一歳だった。
慶応四年の新選組流山駐屯地には十三歳の少年兵・田村銀之助がいた。
大正になって田村銀之助が語ったところによると「流山で降参の際は夜中でしたから、多少の武器は畑へ隠したのですが、鉄砲を持って弾薬を持たぬ人がいたり、弾薬を持って鉄砲のない者がいる始末で、殆ど役に立たなかった」と香川敬三隊の突然の包囲による混乱ぶりを伝えている。
その後、会津に転戦、母成(ぼなり)峠の戦いに敗れ仙台行きの命令が下り、他の少年兵と出発するが、足を痛め脱落。ひとり米沢街道をとぼとぼと仙台をめざす。田村にはあくまで土方歳三について、戦う道しか頭になかった。
箱館戦争では幹部伊庭八郎、春日佐衛門のモルヒネ服毒死を傍らでみることになるが、榎本武揚総裁がまだ先の人生があるのだから降伏しろ、というすすめに答えて「十五の年で命が惜しければ、五十でも惜しい。五十で惜しければ七、八十でも惜しいのです。私も武士の家に生まれたものであって、皆さんと一緒にこの城に立て篭った以上は死する覚悟である」と。
森崎湊は最後の武士として自刃し、田村銀之助は大正十三年、六十九歳まで決して平坦ではなかった人生を生ききった。


新選組外伝第五話 土方歳三の密使


相馬主計

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大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第五話

土方歳三の密使

釣洋一さんの発見した「島田魁日誌」によると「その夜(四月三日)、土方は附添二人を連れて江戸に走り、大久保一翁(いちおう)、勝安房(あわ)に会った」とある。
土方歳三は近藤勇の助命嘆願のため勝海舟に逢いに行ったのだ。ここに言う大久保一翁は勝海舟とともに幕府の最後を支えた人物。
今年五月十一日、日野市高幡不動において川澄祐勝貫主の英断により、新選組総慰霊祭がとり行われた。
一翁の子孫・忠昭氏、歳三の子孫・陽子さんが代表焼香をされた。
「相馬某、大久保、勝、土方の封書を持って板橋へ行き近藤に渡した」と。
相馬某こと相馬主計(かずえ)は板橋総督府に行き、近藤勇助命嘆願の密書を差し出すが、そのまま捕まり脇本陣・豊田市右衛門方に留置された。すでに近藤勇の正体はわかっていた。相馬は近藤処刑の四月二十五日にやっと釈放され幕府陸軍歩兵大隊とともに東北戦線を戟う。
磐城(いわき)久の浜から白石を経て仙台に姿を現し、石巻で土方歳三に再会。
榎本艦隊に合流して猛吹雪のなか北海道森町鷲の木浜に上陸、箱館戦争を戦い抜く。
以来、最後の新選組隊長として指揮をとり、函館山麓の弁天台場で孤立するが、五稜郭から救出に向かった土方歳三が一発の銃弾で馬上に斃(たお)れ榎本武揚は降伏する。
戦後、相馬は旧幕府軍首謀者として終身流刑が言い渡され、新島に流された。明治五年秋、赦免となり、新島で娶(めと)ったマツを連れて東京に帰り蔵前に住んだ。
ある日マツが使いから帰ると、割腹自殺した相馬主計が血の海に染まっていた。享年三十。
カミュの「異邦人」を思わせる最後だった。
(文/大出俊幸)


新選組外伝 第四話

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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第四話

私事にわたるが、私は大学受験で落第し、農業を手伝いながら一年浪人をした。頼りは受験参考書とラジオ講座のみ。なかでも小野圭次郎の「英文解釈」にはお世話になつた。
後年、その小野圭次郎の義父が、新選組の鈴木三樹三郎(兄は新選組の大幹部・伊東甲子太郎)と知って腰を抜かした。
早速、子孫探しに走り、石岡市在の鈴木家を訪ねたのが、昭和四十六年の晩秋だった(御子孫の鈴木康夫氏には流山市長流寺での第一回近藤勇忌に出席いただいた)。
旬日を待たず、鈴木さんの紹介といって釣洋一氏が会牡に訪ねて来た。
聞けば生麦にある日産自動車の臨時工をしながら新選組の研究をしているとのこと。手には新選組の関連写真と三十枚ばかりの原稿。本にすることをすすめると、京都のパチンコ屋に職を求め、休み時間はすべて取材に専念すること三年。
最後の二カ月は鈴木三樹三郎らの宿舎・月其院に泊り込んで『新選組再掘記』を書き上げた。本の上梓後、釣さんから新選組・島田魁の子孫が見つかったから一緒に敦賀に行って欲しいと言われ、雪の中、塩津敦子さん宅を訪ねた。遺品のなかに島田魁の日記があった。
その一節「近藤某と附き添い野村利三郎、村上
三郎、右有馬(藤太)と同道にて板橋本営に至る。村上三郎、途中より流山に帰る」とある。
近藤勇について行った野村利三郎は板橋で捕縛され、近藤が斬首されてやっと釈放された。のち春日左衛門の陸軍隊に入り東北戦線を戦い石巻で榎本武揚艦隊にいた土方歳三と合流。宮古湾海戦では、三メートル宙を飛び敵艦に乗り移って激闘の未、海中に没したという。
今も宮古市の海岸通りに面して「幕軍勇士の墓」と刻まれた小さな墓碑がひつそりとたたずんでいる。 (文/大出俊幸)


近藤勇を捕まえに来た男  大出俊幸

有馬藤太

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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第三話

つか
近藤勇を捕まえに来た男

新選組が五兵衛新田(綾瀬)から流山に転進した慶応四年四月一日、同じ日、板橋の西軍総督府は香川敬三(水戸の人)に宇都宮行を命じた。香川隊はその日千住に泊り、翌二日、日光街道を北上して杉戸から粕壁(かすかべ=春日部)にかけて宿営した。そこへ流山の田中藩陣屋から「武装集団が流山から来た」との情報が届く。関宿の向いにある境町の小松原家に残された文書に「亀吉億茂助口上書」があり、流山の加村というところの陣屋より杉戸の新政府軍へ第一報がもたらされた、とある。
斥候(せっこう)を務めた薩摩藩の有馬藤太が後年語っているところによると、翌三日、午前四時に部隊が粕壁を出立すると同時に隊を二分し、一隊は反転。斥候の有馬藤太は馬を走らせ羽口(はぐち、ばくち、とも言う)の渡しを渡って流山に向かう。五人の兵と足軽の坂本を連れて本営を訪れ「大久保さんに会いに来た」と申し入れる。
「いま仕度中ですからしばらくお待ちください。草鞋(わらじ)ばきのままで結構ですからどうぞお上がり下さい」といってお茶が出される。幕府の奴らはお茶に毒を入れて殺すと聞いたから「昨夜、酒をのみすぎたので水を一杯いただきたい」といって、照れ隠しに水をのむ。
しばらくして大久保が立派な紋付袴で出て来て、二人の小姓を呼び寄せ、一人には書籍と小刀、他の一人には書籍とピストルを与えた。主従の別れとはいえ同情のあまり涙が流れる。
有馬藤太はのち、宇都宮攻略戦に向かったが傷を負い戟線離脱、戊辰役後、官吏となったが、西南戟争に呼応して起ち投獄され、恵まれぬ後半生を送った。香川敬三は首脳陣にとり入り戊辰役論功行賞の副委員長など努め宮内庁に入る。青山墓地の中でも広い香川の墓所には大きな鳥居があり、女官一同と刻まれている。


新選組外伝 第二話 大出俊幸

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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第二話

流山駐屯で近藤と土方は何を語り合ったか?

JR京都駅の近くで小さな印刷所を営んでいる石田孝喜さんは、家業の間をぬって古書店や古文書を探したり、墓や碑の調査などされている。卒業した早稲田実業の先輩に、東京は調布深大寺にお住まいの浅田平八氏がいた。朝田氏は調布生まれで、「近藤勇の会」を主宰。その浅田先輩から「せっかく京都に住んでいるのだから、近藤勇のことを何でもいいから調べてみてくれないか」と命言された。
昭和四十六年夏二見都府立総合資料館で仕事の合間をぬって史料探しをしている時に「新撰組往事実戦薄暮」という題目が目にとび込んで来た。
早速、全文の複写願を出し複写を入手した。その中の流山の一節。
新選組が本陣を敷いたといわれている「長岡崖」の階段(流山市立博物館で展示中)板橋総督府からの兵に十重二十重に囲まれた近藤勇は捕吏(薩摩藩有馬藤太)に割腹の決心をして、身支度をするからとしばらくの猶予を乞い、三、四名と二階に昇った。
その時土方日く「ここで腹を切るのは犬死だ。運を天にまかせ、板橋総督へ出頭し、あくまで下総の治安を守るために流山に屯営しているのだと主張するのが得策である」と説得。近藤もやっと領いて板橋に出頭することに同意した。新選組の局長、副長としてともに戦乱を潜りぬけて来た男の別れに当って、どこまでも生き抜いて欲しいと思うのが心情であろう。
その足で土方は、江戸の勝海舟のもとに走り、近藤の助命を嘆願する。
海舟の日記には、一行「四日 土方歳三来る。流山転末を云」とあるだけ。この文書を書いた近藤芳助(のち川村三郎)は会津母成時の激戟に参加。のち仙ムロで捕らえられた。戦後、横浜に移住し代言人(弁護士)となり県会議員も務めた。発見された文書は京都の市会議員高橋正意氏の求めに応じて書いた手紙で約七メートルの差紙に記された長文である。