投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

『燃えよ剣』を読む。 最終回、赤間 均

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は平成20年4月・215号からの掲載です。

『燃えよ剣』を読む

赤間 均

八 『燃えよ剣』の魅力

 司馬は『燃えよ剣』を次の文で締め括った。
「お雪は横浜で死んだ。それ以外はわからない。明治15年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄な婦人がある。寺憎が故人との関係をたずねると、婦人は澄みとおるような微笑をうかべた。
が、なにもいわなかった。お雪であろう。
この年の初夏は函館に日照雨が降ることが多かった。その日も、あるいはこの寺の石畳の上にあかるい雨が降っていたようにおもわれる。
お雪の幻影が石畳の上に残っている。映画のラストシーンを見るような情景描写である。絵のように浮かんだ情景を文章に置き換える、司馬らしい表現のように思われる。
小学生のころから、絵を描くのが上手だった司馬は、新聞記者時代、絵を見て感想を書くのが仕事だった時期に、絵画理論を読み、その呪縛のために、絵を自由に見られなくなったと書いている。その仕事を離れ、自分自身を拘束するものから解放されて、絵を自由に見ることができるようになり、小説を書き始めるきっかけになったという。
取材にでかけ、土地の匂いを巧みにスケッチする。そのスケッチを並べ、空の高みから、時空を超えて自由に構成する。そうした画家や絵巻物の絵師、映像作家の目で司馬は小説を書いていたような気がする。
司馬は、幕末の変動期に生まれていたら何になっていたいと思うか、という問いに、百姓になっていただろうとこたえた。百姓の一人として、街道の縁に立って、道を急ぐ壮士たちや、練り歩く大名行列を見送っていただろう。寺子屋で読み書き算盤を身につけ、村の雑貨店くらいは経営しただろうし、仕入れのために、街道をゆくことはあっただろう。行商もしただろう、ともこたえている。
司馬は、歴史家の眼で激動の時代を捉え、庶民の目の高さで『燃えよ剣』を書いた。
連載予告の後半ではこうも述べている。
「歳三は戦国時代の勇者ではなく、現代の英雄とよばれるにふさわしい。歳三のような人物は、どの職場にもいるのではないか。ただその企業目的が、殺人であるかないかのちがいだけである」と。
だから、時代の荒波に抗って、最後の一人になっても闘い、死んだ、土方への共感-敗者への共感が、やさしさとなって伝わり、読後感がどこか爽やかで明るく感じられるのだろうと思われる。
(『箱館戦争銘々伝』「土方歳三」執筆者)


七 創られた思い人お雪-3

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『燃えよ剣』を読む

赤間 均

七 創られた思い人お雪-3

『やったよ、お雪』
と、不意に歳三はいった。
お雪はびっくりして眼をあげた。まつ毛の美しい女である。
『なんのことでございます?』
『いやなに、やったというのさ』
片言でいって、笑った。かれに巧弁な表現力があれば、『十分に生きた』といいたいところであろう、わずか三十五年のみじかい時間であったが。」
支配人に、お雪を無事東京へ連れ帰ることを頼み、二階の窓のお雪に会釈をして、土方は馬上の人となった。今生の別れである。
土方は「新選組副長土方歳三」の名で単騎敵陣へ乗り込み、銃弾を浴びて死んだ。
恋愛小説としても読める『燃えよ剣』。
司馬は、「宮本武蔵にお通がいたように、土方にお雪がいたと思ってください」(『司馬遼太郎を歩く』)そう言ったと伝えられている。では、お雪の登場は、どんな意味があったのだろうか。もし、作中に登場しなかったと仮定してみよう。
『燃えよ剣』は、『坂の上の雲』のように、歴史家の文章に限りなく近づき、史実に沿った鳥羽伏見の戦い以降の、ストイックな土方は描けても、現代(現在)に通じる、「私」にかえった人間的な土方像とはならなかっただろうし、読者から、とりわけ女性からは高い支持は得られなかったに違いない。
幕末という時代の枠組みから現代へ、公から私へ架橋し、その制約を突き破り、往還できる自由を、お雪は、土方に与える役割を果たした。どこか心の休まるなつかしさを感じさせ、時には大胆な言動を伴う、意外な面を兼ね備えたお雪。司馬の想い描いた魅力的な女性の典型なのだと思う。
戊辰戦争最後の戦いである箱館の地まで、お雪が追って来て、愛を重ねるくだりは、現代的過ぎるのかもしれない。大坂で別れた後、風のうわさで、土方の死亡を聞き、箱館の地を訪れるという話の方が自然であろう。
ところが、そうしたならば、土方は、司馬の嫌う求道者のような存在になり、お雪も古い時代の女になってしまう気がする。


七 創られた思い人お雪-2

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『燃えよ剣』を読む

赤間 均

七 創られた思い人お雪-2

 時代は急変する。徳川慶喜の大政奉還、それに続く王政復古、新選組は京を離れ、伏見奉行所に本陣を置いた。土方は、お雪
に別れの手紙を書いた。手紙には、「武士らしく会わずに戦場へゆきたい」と書きながらも、「会えば自分が変わってしまうかもしれない」と書いてあった。お雪は、ひと目見てから別れたいと、二度、伏見を訪れたが、逢えずにおわった。
翌年の慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いが始まり、幕府軍は思いがけず惨敗を喫し、新選組も将軍のいる大坂に敗走した。
幕府軍は江戸に戻ることとなり、新選組も富士山丸に乗船し、帰ることが決まった。
出帆する二日前、代官屋敷近くの松林で、土方は近づいてくるお雪に出逢った。土方は代官屋敷に急いで戻り、紋服に着替える
と、再びお雪のいる松林へ行った。抱き寄せる土方に「うれしい」と応じた二人は、夕陽ケ丘の西昭庵という料亭におさまり、
二夜を共にする。
「『私は、(中略) いつの場合でもひとに自分の本音を聞かさないようなところのある人間だったようにおもう。過去に女
も知っている。しかし、男女の痴態とい うものを知らない』
『……そ、それを』
お雪は、武家育ちで、かつて武家の妻だったことのある女なのだ。眼をみはっ た。」
しばらく、行きつ戻りつした後に、お雪は言った。
「『雪は、たったいまから乱心します』」お互い、抑えてきた感情が、激流となってあふれ出した瞬間であった。
それから一年四か月、土方は、甲州路、宇都宮、白河、会津で戦い、仙台から旧幕臣の榎本武揚の軍と合流して、箱館の地で、
最後の戦いを迎えようとしていた。
箱館にある鴻池支店の支配人、大和屋友次郎から思いがけない言葉を聞いた。支店の別館にお雪を連れてきているというので
ある。土方は馬を走らせ、洋館である別館の二階で、お雪を抱きしめ、唇を押しあてた。その日、 二人は命の限り愛し合う最後の夜を過ごした。
「もはや、歳三には、死しか未来がなかった。


創られた思い人お雪-1

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『燃えよ剣』を読む
赤間 均
七 創られた思い人お雪-1

 お雪は、大垣藩の江戸定府で御徒士を務めていた加田進五郎の妻。京の警護を命ぜられた夫のあとを追って上洛し、町住まい
をしながら、四条円山派の絵師に絵を習っていた。ところが、夫は病死してしまった。
江戸の実家に帰るのが本来の姿であるが、実家が寛永寺の坊官なので収入が高く、その仕送りがあるので、何となく京に留まっていた。
話は、土方が七里研之助らに襲われたときに戻る。土方は、左腕と右腿に傷を負い、露地に逃げ込んだ。消毒のための焼酎があれば、そう思ったときに、頭上の小窓が開いた。
女は、格子戸から土方を招き入れ、所望された焼酎と傷薬だけではなく、亡夫の紋服、羽織、袴、嬬祥、晒の入ったみだれ籠をも差し出す。
傷の手入れを済ませた土方は、紋服に手を通し、いずれ礼に訪れることを告げ、辻駕籠に乗った。その女の名は「お雪」。土方にとって生涯忘れられない名となる。
年があらたまった慶応二年春、土方は用事のあるふりをしてお雪の家を訪れた。それ以来、何度も訪れるようになったが、お雪のことを哀しくなるはど想っていながらも手も握らず、世間話を饒舌にして帰る男となった。
「(このひとは……別の自分になるために此処にぎている)」
そう、お雪が感じるほどに。
六月、お雪を訪ねた土方は、そぼ降る雨に濡れる庭の紫陽花を見ていた。
「一つ屋根の下に静もっていると、ふと、ながい歳月をおくってきた夫婦のような気がする」
そう思う土方の心に大きな変化が起こる。公用で江戸に行くが欲しいものは、と土方が聞いたときの話である。
江戸にしかない「たたみいわし」と答えたお雪に、「いいひとだなあ」と土方は返した。その言い方が不満で問い詰めるお雪。

「そんなことばかりいうと、つい、抱いてさしあげたくなる」
「抱いてくださってかまいませんことよ」
初めて二人は一つになり、土方はその後、別人のように、やさしい眼になった。


世に出てきた新選組の冊子、史料集-3

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 謹賀新年
本年も宜しくお願いします。
2019年元旦 大出俊幸

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

世に出てきた新選組の冊子、史料集-3

伊藤 哲也

 年末になり、大河ブームも終盤にさしかかった時、日野ふるさと博物館で山崎丞が書いたといわれる『取調日記』が展示され
た。新選組最盛期の史料であり、書き足しはあるが慶応元年六月頃のものであろう。
『取調日記』が活字化されるとは思わず書き写すことに集中していたことも懐かしい。「徳川慶喜」放送頃から近世史学会の
学者たちも新選組について多くの方々が発表等に加わっている。
大河ブームでは数多くの史料が世に出たが、会津戦線においても個人所有の古文書の中で一行のみ新選組についてふれられて
いる未発表史料が数多く存在する。図書館のデーターライブラリー化により平日しか入館できないものの史・資料を多く保存して
いるところや遠距離ながら貴重な史・資料を所有しているところもこの世には存在する。地方誌も無視は出来なく、白河小峰で
は『新選組戊辰戦争奥州白河口』という冊子が出版されるまでにおよんだ。東京二十三区だと金子家史料や寿徳寺冊子など一読
の価値のあるものは数多い。小島資料館の冊子もマイペースながら読み応えはある。
また、新選組隊士の甥が総理大臣を務めたことまでわかった今日現在である。原敬のように東軍慰霊祭を行なったかまでは不明
であるが。
実際には、商業誌に史料が発表されたのみだけではなく地方誌や個人所有の史料を始め、図書館においては中には一人の人物、
事柄のみで一部屋使用している史・資料もある。維新期の戊辰戦争を追っていくと必ずや新選組や関わりのある事柄が出てくる。まだまだ世の中には数多くの史・資料が現存しており今後の追及課題でもあろう。

この項終わり


世に出てきた新選組の冊子、史料集-2

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謹賀新年
本年も宜しくお願いします。
2019年元旦

大出俊幸

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

世に出てきた新選組の冊子、史料集-2

伊藤 哲也

前に記した『土方歳三遺聞』も大河ブーム前であるが「荒井治良右衛門慶応日記」「若松記草稿」「戊辰十月賊将卜応接ノ始末」など新史料が掲載されていたことを抜いて史料紹介は進められないであろう。
そして、「新選組!」バブルに突入すると日本各地の博物館で新選組、幕末期の特別展が開催され初公開の史料も数多く出てきた。流山市立博物館の特別展では、あらたに見つかった古文書を展示するなど日本各地で新選組関連の催し物が行なわれた。
土方歳三記念館では、古文書や古写真を『子孫が語る土方歳三』にまとめられている。史料として新選組隊士や縁者の古写真とかも新たに、世に出てきたものも数少なくはない。
新選組の年からか、日野高幡不動において新選組忌という子孫、関係者が集まった催し物が行なわれた。この時、佐藤俊宣が晩年に記した「佐藤家の記事」と土方歳三写真の原本が展示された。現在、日野市役所は『佐藤彦五郎日記』を活字化して二冊にまとめたものを販売している。「新選組-」放送時に新選組関連の所のみ抜粋して販売したが、今は絶版となった。現在の所有者は、公開する意図が全くない。前に述べた「佐藤家の記事」こと「今昔備忘記」が間もなく書籍に掲載されることを心待ちにしていくしかない。土方家の「中島登覚書き」と同時に写したか、土方家から写したか明確ではないが「新選組英名併日記」を日野高幡不動が所有している。


世に出てきた新選組の冊子、史料集-1

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世に出てきた新選組の冊子、史料集-1

伊藤 哲也

維新時に書き残された史料、維新から数十年後の伝承や聞きがきなどにより伝わる資料、ともに活字化されていないのが多い。
新選組の史料が含まれている文献であるが、日本史籍協会の『維新日乗纂輯』を始め数多くの史料が掲載されている史料集が
ある。商業誌としての出版だと、大出さんの永倉新八『新撰組顛末記』に始まった言っても過言ではない。永倉新八のみでも「浪士文久報告記事』が発見された時は、マスコミや書き手たちでも大騒ぎになったことがある。今までの新選組史を変えていくわけだから。
その後、多くの方々が単行本などに新選組の史・資料を執筆紹介されていった。後年に記された資料も含めてである。『新選
組覚え書』『新選組再掘記』などが出版され、色々な史料が世に紹介されていった。
そして、『土方歳三、沖田総司全書簡集』や『新選親日誌』が出されて、新選組資料紹介全盛期ともいうべき時がくる。近年で
注目すべき史料が掲載されている『土方歳三遺開』『新選組全史』が世に出て間もない。そして、大河ドラマ「新選組!」ブー
ムに便乗した多くの出版社が数多くの流行本を世に出した。残念なことに全ての読者が史料本と小説本の区別がつくわけでもな
い。大河期で良い史料本となると『新選組!展』であろうか。箱館戦争以来、原本初公開となった『戊辰戦争見聞略記』も史料としては貴重だ。
大河ドラマというと「徳川慶喜」も脳裏に浮かぶ。この時、日野の古文書を読む会によって、日野の千人同心井上松五郎が将軍家茂の御上洛御供の時に書き残した旅記録を「文久三年御上洛御供旅記録」として一冊の冊子にまとめられた。現在は、井上源三郎資料館で販売をしている。「日野新選組展」が行なわれた時も数多くの史料が冊子に写真紹介された。地方誌だと、会津藩出身の新選組隊士が書き残した「戊辰己巳心中書置書」が発表されている。他の地方誌にも未発掘の資料が掲載されているこ
ともあろう。
土方の日記の「土方歳三の手記」が、『土方歳三の日記』に紹介されたのもこの頃のこととなる。土方の日記原本となる史料が失われたのは残念であるが、写本として現世に残ったのは良かった。富沢忠右衛門の在京中の日記である『旅硯九重日記』も大河ブームに入る前に出た冊子であり、内容的にも貴重なものである。


土方歳三と榎本武揚の出会い・最終回

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い
永吉治美

三、史料が語るもの-1

土方は維新の時代を幕末の京のみならず箱館戦争まで駆け抜けた。
流山で縛に就き、その生涯に終止符を打った盟友近藤勇に遅れることおよそ一年、土方もまた箱館で散ったが、その一年は土
方にとって新たな一枚の絵のような観がある。その象徴とも言えるのが、土方が得た新しい人間関係である。彼を評価し、信頼
し共に戦った戦友という新しい人間関係……。
明治になっても多くの人々の思い出の中で、土方歳三が生き続けた所以であろう。
終わりに、史料解読でお世話になりました高幡不動尊貫首、川澄祐勝様、古文書を読む会会員、島内嘉市様。写真の現像にご
協力下さいました殊式会社コニカ様。そして、代々平家に伝わる貴重な史料とお話をご提供下さいました平拙三様に心より感謝
申し上げます。


二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-3

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未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-3

慶喜一行は小舟で海上に出て、開隊丸を探すも見つけ出せず、その夜はアメリカの砲艦に乗船させて貰って一夜を明かし、翌
七日、開陽丸に乗船を果たしている。
『復古外記』所収、一月七日付の中村武雄手記に、「(前略)麦に榎本和泉守は初め播州海に於て薩船を打破り、速に上陸して大
坂城に入り大計を論ぜんとせしに、前将軍己に江戸へ走り玉い、(中略)泉州天を仰いで嘆息し……」とあり、榎本が城に入っ
たのは一月七日だったとある。よって榎本が開陽丸から下船したのは六日の早くとも夕方で、恐らく夜にかけてであったと思われる。なぜなら、六日の午前であったり、午後の早い時間であったならば、そのまま登城し慶喜に面会を求めたはずだからであ
る。そうしなかったのは、もう夜になっていて、とても慶喜に面会を求められる時間ではなかったからだろう。

ここでようやく、淀川で土方歳三と榎本武揚が出会う舞台が整った。
一月六日の夕方、橋本から淀川を船で下って八軒家まで退いてきた土方(『島田魁日記』)。かたや、天保山沖に到着した開陽
丸から小舟に乗り換え、八軒家へ落ち着いた榎本。榎本が八軒家へ落ち着いたと考えた根拠は、前述の 『会津戊辰戦史』に、大
坂城から引き上げる際、物資などを八軒家へ運んだとあるからである。
「土方卜淀川ヲ舟ニテ下ル時ニ コン意トナレリ」
二人は淀川の舟中で、榎本が後年語ったように、「懇意な仲」になつたのである。
平忠次郎が訪ねた人々は皆、忠次郎に温かい態度で接してくれたという。榎本始め、大鳥が十本ほど、勝が三本ほど、山岡鉄舟
が三~四本ほど、後藤象二郎、松本良順ともに数本の染筆を忠次郎に与えている。高幡不動に寄贈された数がこれより少ないの
は、形見分けなどで多少数が減ったからだそうである。
しかし忠次郎はこのことを誰にも語っていなかった。そのため、子や孫から「なぜ、このように立派な人々の掛け軸や善が我が
家にあるのか?一体本物なのか?」といつた疑問を投げかけられたのだという。そこで忠次郎は死ぬ前に、その経緯を子孫に
語り残したのである。


一、平家と土方歳三-5

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

一、平家と土方歳三-5

『島田魁日記』に拠ると、新選組はその前日に負傷者を船で大坂へ後送している。橋本口には、〝渡し″があり船便がある。また、橋本から大坂までおよそ、三十キロあり、歩いて引き上げたのでは、時速五キロ(結構急ぎ足)としても六時聞かかる計算となり、暗くなるまで八軒家(淀川河口、天満橋付近)に着くのは難しい。また、朝早くから夕刻遅くまで戦い続けたうえに、六時間余り歩き通した後で、島田達に兵椴焚き出しの手配をする気力が残っていただろうか? 以上のことから、生き残りの新選組は、六日夕方、橋本から大坂へ淀川を船で下って引き上げたと考えてよいだろう。ここで土方が、一月六日の夕方から夜にかけて、淀川にいたという可能性が高くなつた。
一方の榎本についてはどうだろうか。
前述したように、榎本は慶喜が開陽丸に乗って江戸へ帰った後、大坂城で事後の面倒を見ているが、ではいつ榎本は大坂城に入ったのだろうか? それについて作家、綱渕謙錠氏が著書『航』で、詳しく検証されているので、それを参考に、『復古外記』や『蝦夷之夢』 (「旧幕府」所収)などと合わせて考えてみたい。
『蝦夷之夢』 で、著者、沢太郎左衛門(註・開陽丸の副長)は海軍奉行矢田堀讃岐守と榎本が「一月五日から御用にて大坂に上陸し……」と語っていることから、榎本五日在大坂説が存在する。
だが、一月三日に大坂港を出た開陽丸を始めとする幕府艦隊は、一月四日、阿波沖(現在の徳島県沖)で薩摩藩の春日丸、翔鳳丸の二船におい付き、春日丸と海戦に及んでいる (『薩藩海軍史」)。春日は隙をついて逃走したが、故障を抱えていた翔鳳丸は由岐浦で座礁し、翌五日、自爆自沈した。開陽丸は五日にその翔鳳を検分し、榎本と矢田堀は連名で、松平阿波守宛の公文書を由岐浦の奉行陣屋に提出している。その公文書の日付は一月五日である。大坂港と由岐浦は一三〇キロ余りも離れている。その日の内に大坂港に帰り着くのは難しいのではないだろうか。そこで開陽丸を始めとする幕府艦隊が、大坂港の天保山沖に帰港した
のは翌日の一月六日ではないかと考えられる。
『会津戊辰戦史』でも、「是より先開陽丸艦長榎本武揚和泉守は戦況の可ならざるを見、且海軍の戦略を陸軍総督に告げんとし
て、六日の夜艦員尾形幸次郎、伊藤裁五郎、我が藩士雑賀孫六を従へて大坂に上陸す」
とあり、榎本達が大坂へ上陸したのは六日夜となっている。
複数の証言から、慶喜らが大坂城を抜け出したのは一月六日の夜のことで、『蝦夷之夢』には、六日の夜九時頃と記されている。
(注)写真は徳川慶喜公

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