投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

「新選組を語る会」-4

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。

32年ぶりに復活した
「新選組を語る会」-4

峯岸 弘行

参加された女性スタッフのお一人日く「こんな素晴らしいイベントに協力できて光栄です。ご子孫のみなさんと一緒に撮っていただいた写真は我が家の宝物にします」と。さらに、うれしかったことは、「語る会」ご案内は送付したものの、出席のご返事をいただいていなかった榎本武揚子孫の榎本隆充氏から当日、電話で「参加したい」と連絡が入ったことです。ご夫人とお二人でご出席いただきました。出席者は200名を超え、資料館見学会には200名が3つのグループに分かれて見学していただきました。土方陽子さん、井上雅雄さん、佐藤福子さんには、講演会終了後、すぐにそれぞれの資料館に帰り、開館準備をお願いし、ご協力いただきました。
タイムスケジュール管理で手一杯となり、子孫とファンの方がゆっくり懇談できる時間が十分に持てなかったことが反省点となりました。また、当日参加申込みの方が意外と多く、スタッフ用の昼食を回さなければならなかったり、資料館バスツアーの当日参加希望に対応しきれず、申し込みをお断りしたりとその他の反省点もいくつか出てきました。その資料館見学ツアー(大型バス1台+マイクロバス1台) に参加された最後の組をお見送りし、すべてのスケジュールが終わり、高幡不動尊にお礼を申し上げ、第1回「新選組を語る会」は無事終了することができました。誌面をお借りいたしまして、ご協力をいただいたすべての皆様、ご遠方からかけつけていただいたご子孫の皆様に心からお礼を申し上げます。
尚、平成19年12月に開催された、日野新選組同好会の忘年懇親会において、平成20年度の第2回開催が5月25日、北区滝野川と決定しました。なお、本年は戊辰戦争140年の節目にあたり、「戊辰戦争140年記念・新選組俳句・短歌作品コンテスト」を日野新選組同好会と「語る会」が共催し、入賞者の表彰式を『第2回新選組を語る会』で実施することも決まりました。
平成21年の土方歳三没後140周年の第3回まではなんとか、がんばって会を継続開催してまいりたいと思います。
新選組を語る会、連絡先
日野市高幡1-1 峯岸弘行


「新選組を語る会」-3

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32年ぶりに復活した
「新選組を語る会」-3

峯岸 弘行

 記念講演会講師には、昭和50年の第1回にも「新選組好きな1人の学生」として出席されていた、伊東成郎氏にお願いいたしました。古武道大会には、天然理心流に加えて、斎藤一の剣術として有名な無外流の長沼秀明師範と幕末つながりで薬丸自顕流顕彰会の和田博温師範に演武をお願いすることもできました。(しかし、残念なことに、時間の関係と会場の高幡不動尊五重塔地下ホールが満員状能心であったために、演武をみることができた方は少なかったと後で伺いました) 余興として、調布市のジョー緒方氏に新選組の歌を1曲歌っていただくことも決まりました。開催日が近づくに連れ、出欠席のご返事が届くようになりました。私も北海道、京都、玉造とゆかりの地を回って、「語る会」 のPRをしました。何名かの新選組隊士ご子孫から、「最近、新選組を通じたイベントでご案内をいただくことが増えて、なかなか、顔を出すことができなくて……」とのお詰も伺いました。また、出
席したいが他の用事が重なり、欠席します、と何名かのご子孫からご丁重なお手紙をいただきました。そのなかには、新選組隊士
の絵姿を描いてその姿を後世に伝えた中島登のご子孫の中島大成氏、北区滝野川の近藤勇と新選組隊士慰霊碑や高幡不動尊境内
の殉節両雄の碑の建立に、お骨折りいただいた松本良順先生のご子孫の松本和彦氏からのお手紙もありました。元浅尾藩藩主で
見廻組の組頭として佐々木只三郎らを指拝した蒔田相模守子孫の蒔田あき子氏からも丁重なお便りをいただきました。
また、当初、予定していた小島資料館の見学会が事情により、急遽日野市内の3つの資料館見学に変更せざるを得なかった
り、当日の限られたスタッフ体制の整備・確認などに追われながら当日を迎えました。ありがたいことに、日野新選組同好会
会員でもあり、日野市新選組ガイドの全会長の芹川氏が、ガイドの会にお話をして有志でスタッフ参加してくれました。参加さ
れた女性スタッフのお一人日く「こんな素晴らしいイベントに協力できて光栄です。


「新選組を語る会」-2

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32年ぶりに復活した
「新選組を語る会」-2

峯岸 弘行

しかし、二つ返事でお引き受けしましたが、私は皆さんに次のようにお話ししました。
「宮川豊治先生の熱意にほだされて、私も肌脱ぐのはやぶさかではありませんが、大河ドラマ『新選組!』とそれに続く、大河ドラマ史上初の続編『新選組=‥』の放映前後から、また、私も発起人として参画した「全国新選組サミット」の結成以降、京都(平成19年から新選組総長・『山南敬助忌』を旧前川邸の田野氏が始められました)、会津(平成18年から、会津若松市七日町・阿弥陀寺で『斎藤一忌』が開催されています)、流山(平成16年から『近藤勇忌』が開催されています)、行方市玉造(平成16年から『芹沢鴨・平間重助忌』が開催されています)、北区滝野川(平成16年から『滝野川新選組まつり』を開催)、新宿区市ヶ谷柳町(平成16年から『市ヶ谷柳町試衛館まつり』を開催)等、新選組ゆかりの地各地で、さまざまな、まつりやイベントが毎年、開催されるようになりました。また、大出俊幸氏が新選組の慰霊と顕彰を目的に立ち上げられた、全国一の新選組ファンクラブである「新選組友の会」でも、近藤、土方、沖田の慰霊祭と戊辰戦争東軍慰霊祭も毎年、開催されていて、全国の新選組隊士子孫も出席依頼が激増し、『語る会』にご案内しても、どのくらい子孫にご参集いただけるかはわかりません。それでもよろしいですか?」と。
そして、皆さんから、「それでも是非開催してみよう」とのご返事をいただき、翌年2月頃から準備にかかりました。開催場
所と開催日時を決定するに苦労し、ようやく、11月11日(日)に決定したのが3月頃です。ひの新選組まつり実行委員会委員長
を歴任されている中澤洋氏から「第20回・全日本刀道・古武道合同奉納演武大会」の開催日時について相談され、それなら、古
武道に「天然理心流」も加えていただき、「語る会」と同日開催をと提案し、宮川氏にもご了解をいただいた上で、正式決定し、
上記4名に、加えて、発起人をお引き受けいただいた沖田整司氏、小島政孝氏を含め、6月頃、全国の新選組隊士子孫、ゆかりの
方々に、案内状を送付しました。


「新選組を語る会」-1 峯岸弘行

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32年ぶりに復活した
「新選組を語る会」-1

 

峯岸 弘行

平成18年の12月に私が所属する日野新選組同好会の「新選組隊士御子孫を囲む忘年懇親会」が開催され、その席上、宮川豊治
氏から、以下のようなお話を伺いました。
「実は皆さんにご提案があります。2年前(平成17年)に新選組が大河ドラマに取り上げられ、戦後何回目かの新選組ブームが巻
き起こり、私も久しぶりにNHKやら博物館から、取材をうけたりしました。その後、井上(雅雄)さんや佐藤(福子)さんは立
派に新選組の資料館を開館され、ふと昔を振り返ると、30年以上前に「新選組を語る会」という会があったことを思い起こしま
した。事務局長は亡くなった(新選組研究家の)谷春雄さんだったと思います。昭和50年8月に高幡不動尊で開催された、第1回の会合には、ここにおられる土方陽子さんのお義父さんの土方康さん(土方歳三子孫)。井上雅雄さんの御父さんの井上信衛
さん(井上源三郎子孫)、沖田勝芳さん(沖田総司子孫)。杉村康郎さん(永倉新八子孫)、杉村逸郎さん(同子孫)、鈴木康夫さん(鈴木三樹三郎子孫)。塩津敦子さん(島田魁子孫)、横倉弥(横倉甚五郎子孫)、粕谷修さん(相谷良循子孫)、穂刈節さん(渡辺市蔵子孫)、稗田誠さん(稗田利八子孫)、中島登(中島登子孫)等の新選組隊士子孫に加えて、松平勇雄さん(松平容保公子孫)や
野村英一さん(松本良順子孫)など、幕臣の子孫や佐藤量さん(佐藤彦五郎子孫)小島政孝さん(小島鹿之助子孫)も集まり、マスコミにも大きく取り上げられました。
ほとんどが初対面であったにもかかわらず、まるで昔の戦友に会ったかのような、懐かしい思いがしたのが不思議でした。今
では有名になった、伊東成郎君や山村竜也君、清水隆さんもいたかな。みんな若かったな。子孫同士で先祖になったつもりで即
興の芝居などをして、大いに盛り上がったものです。
その後、二回目が京都、3回目はどこだっただろうか、その後は、新選組ブームが終息していくのに時期をあわせるように
「語る会」も開催されずに今日まで来てしまいました。私をはじめ、当時出席した「子孫」も高齢になり、もう亡くなられた
方もおられるかもしれないが、もう一度、皆さんにお会いしたいと思います。そこで、来年(平成19年)、「新選組を語る会」を復活したいと思うのです。事務局は、ここにいる峯岸さんに全面的にお骨折りをお願いしたい。私も老骨に鞭を打って、皆さんに
お声をかけ、できるだけ応援しますので、ぜひ、事務局長を引き受けてもらいたい。皆さんどうだろう?」
と両隣に座られていた、土方陽子氏(土方歳三子孫)、井上雅雄氏(井上源三郎子孫)、佐藤福子氏(佐藤彦五郎子孫)のお三方に声をかけられ、皆さんが賛意を表明され、あっという問に「語る会」の開催が決定してしまいました。


会津人・藤田五郎もう一枚の写真-6

190317
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故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-6

 五郎の二男・剛の結婚式が行われた大正2年の2年後に藤田五郎は、永久の旅路へと旅だった。同年に、五郎も助力した東京都北区寿徳寺の新選組供養碑建立に尽力した元・新選組隊士の永倉新八こと杉村義衛も他界したのは多くの方々が知ることである。
八百勘は、婚礼の披露宴が多いので、俗に「婚礼茶屋」とまで呼ばれていた。250人もの客を入れる部屋数があったという。現在では、建物等は跡形もないが、庭石四器のみ現存する。八百勘自体は、江戸末期から大正末期まで営業していたが、今は庭石を残して何の遺構もない。ただ、森鴎外の 『懇親会』や志賀直哉の『和解』、太宰治の『花吹雪』などの文学作品に使われていることなどから著名さは誰もが感じ取れることではなかろうか。それだけではなく、「赤坂八百勘」の絵図は、豊原国重が描いた開化三十六会席にも含まれていた。芸者たちからも、面影を連想することができるが、主に宴会場や結婚式場として使用されていたことは、忘れてはならない。
斎藤一の新たな史料が、続々といろいろなところで見つかっている。その最中、斎藤一を慕い、いろいろと探究されていった赤間倭子先生が他界されたのである。心からの追悼を、もう一枚の藤田五郎の写真の謎を解いたことを赤間先生に捧げたい。(了)


会津人・藤田五郎もう一枚の写真-5

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故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-5

伊藤 哲也

藤田五郎の写真

 藤田一族が写された写真原板に半紙のような薄い古紙をおおいかぶせると、人物に相対して名前が書かれていて、写真に撮影された人物が誰なのかがわかる。古紙の右側には、藤田一族を撮影した場所、年月日、理由が書かれているのだ。この上紙の価値は前述のことからも高いことがわかる。
「大正弐年九月二十八日 東京亦坂八百勘庭
中二於テ結婚記念撮影」
(藤田剛夫妻結婚式記念写真)
大正二年九月二十八日に藤田五郎次男・剛と旧会津藩家老・田中土佐の孫娘である浅羽ユキとの結婚式が東京赤坂八百勘で行われたことが記されているのだ。婚姻届を出したのは、大正三年と戸籍に記されているが。赤坂の八百勘については、次の項目で述べさせていただくこととする。まず写真の上に乗せる古紙に書かれた名前を先に列記していく。
「高木 睦雄
森山  明
沼澤 七郎
愛久澤直哉
藤田  勉
沼澤久仁子
赤埴ヤ翁子
藤田 五郎
小川婦美子
ゆき子
相澤又次郎

浅羽 磯吉
婦之子
井林 菊助」
各人と藤田家の関係は「歴史春秋」という会津若松の同人誌に、私が掲載している。

撮影された場所と遺構

藤田剛夫妻の結婚式が行われた場所と現状について述べていく。八百勘であるが、現住所は、東京都赤坂二丁目八番地の北側
半分である。江戸時代は、黒田家江戸屋敷と江戸城の堀の中間に位置していた。藤田剛夫妻が結婚式を挙げたときの八百勘の住
所は、東京都赤坂区田町六丁目二番地であり、藤田五郎を始めとする藤田家一族、縁者、関係者が記念写真におさめられたこと
に着目していただきたい。


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故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-4

伊藤 哲也

藤田五郎の写真

 次に、幕末期の京都時代に会津藩御預かりとなった新選組副長助勤・斎藤一の戊辰戦争後について、簡易的な説明を加える。
新選組解体後、山口次郎から一瀬伝八と変名して、旧会津藩士と共に戦い、斗南藩領へ移住時には、斗南藩士にまでなり、藤田五郎と改名している。五郎は三人の男子をもうけている。旧会津藩士と共に城外で戦ったことから、謹慎の罪を共に受けたのは、旧新選組隊士だと清水卯吉のみで、斗南移住や旧会津藩と死ぬまで行動を共にしたことが確認されているのは、藤田五郎一人だけであった。そして、五郎の三人の息子のうち、次男、三男と旧会津藩の高石取りであった家から嫁が嫁ぐまでに格上げされている。五郎の三男のみは、旧会津藩名家・沼澤家に婿養子にいくことになるが、赤間先生が三人の息子のことは、いろいろ調べて発表されてきておられた。

藤田一族集合写真

何故に藤田一族の集合写真が撮られたのかも説明しておかなければならない。
実は、この集合写真は、藤田五郎の次男・剛と旧会津藩家老・田中土佐の孫娘・浅羽ユキとの結婚式での記念写真である。
写真画像を出して名前と照らせし合わせて紹介していきたい。私は藤田家から藤田五郎のみ掲載許可をいただいた者なので、信頼を裏切るようなことばできない。そのため、藤田五郎の抜粋とする予定であったが、赤間先生他界のことや法的に束縛されることがないため、写真はすべて掲載することとする。だが、無断で他誌やインターネットに掲載されることば、前に述べたとおり控えていただきたい。


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会津人・藤田五郎もう一枚の写真-3

伊藤 哲也

藤田五郎の写真

 斎藤一こと藤田五郎の写真であるが、西南戦争凱旋時のものが有名だ。反面、晩年における藤田五郎の写真のことを知っている人は、多いとは言えない。藤田家集合写真が実質的に何故、何処で、何のために撮影されたのかと、いろいろ不思議に思われる方々は多いことであろう。そのことも紹介していく。そして、撮影された場所が、現在はどのようになっているかも書き記していくこととする。また、ここで注意書きさせていただく次第。著名な人物、歌手、俳優等と異なり、写真の著作権自体が撮影者の死とともになくなっておりました。写真の複写を譲渡されたことから、私自身には掲載する権限が譲渡されたと同じことなのだともいう。藤田五郎の次男直系から私宛に写真とともに送ってこられた文章を抜粋すると、「藤田剛の結婚式の写真のコピーですが、送付させて下さい。大出様にも同様のもの(以前に赤間先生へと、大出様にお願いしたものです)」という依頼状をいただいている。
藤田五郎こと斎藤一の京都時代、戊辰戦争時代の写真は見つかっていない。箱館戦争終結後であるが、中島登の『戦友絵姿』に山口次郎(斎藤一)が描かれている。その時の常について、装帳家の平野太一氏は「私は、中島登の『戦友絵姿』を見ると、はっきりしないですが、なんだか頭の真ん中に月代があるように見えるので、江戸では「講武所風」などと呼ばれていた、細い髷だったのではないか」と述べられている。
赤間先生が見つけられた西南戟争凱旋時の顔の骨格、体型など皆さん、御存知のとおりである。藤田五郎の写真を発表された時、見つけられた時の赤間先生の喜びは、文字では表現できないほどであった。
藤田一族の写真の説明に入る前に、藤田五郎の壬申戸籍や斗南移住から息子達のことまで少し紹介させていただく。壬申戸籍に藤田五郎は、斗南藩士と記されているが、法的に現物の写しを公開できないのは残念である限り。藤田五郎の長男直系子孫の代理で、私が閲覧してきて撮影した戸籍は依頼者に渡して、ネガは壬申戸籍を管理しているところへ返却した。この時は、個人情報保護法が施行される前である。藤田五郎は会津藩士ではないが、新選組解体後は会津藩朱雀隊に加わり、転戦し、高田で謹慎後は斗南の五戸に移住して、斗南藩士となり、松平容保の実子・容大に仕えて、後には会津会に入り、いろいろと旧藩や戦士者たちへ助力をしていることから、会津人と表現しても良いのではなかろうか。

 


会津人・藤田五郎もう一枚の写真-2

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伊藤 哲也

故・赤間先生と斎藤一

 赤間先生は、いろいろと執筆をされてきて、著名ではあったが、そのなかでも『斎藤一の謎』は世間一般に広まったと述べても過言ではあるまい。斎藤一こと藤田五郎の写真を見つけられて掲載されたことも人々が惹き付けられた理由の一つではなかろうか。出版により斎藤一こと藤田五郎のことを調べられた最新資料を集めて、今も誰しもが追い抜くことなどはできない貴重な書籍となったのである。だが、研究本となると、誰かが後に、より詳しいことや新たな新史実を述べていく。後半は斗南へ移住した一瀬伝八改め藤田五郎のことが主体であった。実は、赤間先生と私が手紙でいろいろやり取りしたことごとを書き改めておられていたことには、後に読んだときに驚いたのでありますが、それと比較すると、一作目の『新選組副長助勤斎藤一』は小説であり、文章も読みやすい。史実が出てきたとしても、真偽の程は別なのである。両方の書籍は、別の意味合いで貴重なものであろう。赤間先生は、とにかく世に残る貴重な書籍を書き残されたが、他の斎藤一以外の単行本も読み応えはある。皆様も本棚から取り出して、改めてお読みになられるとよいものではなかろうか。
私が初めて、赤間先生が入院されたということを聞かされた時は、驚きました。急ぎ東京都日野市の病院へお見舞いに上がったのですが、土方歳三資料館の土方様がいろいろと赤間先生の面倒をみておられた他、伊東成郎氏が『土方歳三の日記』を持ってお見舞いに上がられたことも伺いました。
清水りえ氏も何度もお見舞いにあがられておられている。その後、第三者より、「女性の場合、長期入院生活しているところを男性に見られるのは恥を噸すようなものだから」と言われて、少し納得し、お見舞いも控えめにしたこともありました。そのうちに、赤間先生は、東京都日野市の病院から他市の病院へ転院される。お見舞いに行く度に部屋が移られていく。そして、赤間倭子先生の旦那様は、というと、藤田家からいただいた藤田五郎の羽織を召しになったことも本に書かれており、皆様も御存知のことであろうが、旦那様が他界されて、その病室へ移られてきたこともあった。私と赤間先生の最後の面会となる病室が相部屋に代わられており、重くて単行本でも持てないというので、寄贈本とは別に書籍のコピーをお渡しした。だが、眼鏡が近くになく、視力の問題で読めない。私が涙声で低音ながら読んで聞いていただくことになるのだが。そして、私が後に述べる藤田五郎のもう一枚の写真も見ていただくが、ボヤケテシマッテ見えなかったのだろう。赤間先生の涙が止まらなかった。そのようにして、藤田家の藤田夏子氏に藤田五郎の壬申戸籍を渡す前にも見ていただいている。壬申戸籍の写真は、子孫に渡して、ネガは法務局に返すことにっており、急いで見ていただいたのだ。赤間先生が元気で、入院される前に、旧斗南藩領の青森県に行きたい旨を手紙にて何度も受け取っているし、行きたいとも言われた。元気な頃は、演劇鑑賞にも誘われて御一緒したものである。
時は流れて、長屋芳恵氏の知り合いが赤間先生との面会を病院側から拒否された旨を教えられた。どうなっているのだろう?と思い、私も面会しようとしたところ、医師自らが出てきて、個人情報保護法のことを強調されて、どこの部屋にも名前はないといわれる。前からお会いしている医師なので、いろいろ話を伺ったが、暖味な口調であった。だが、そのうちに出た結論は、親戚以外の見舞いは禁ずるということである。少し落ちついてから再び見舞いに訪れようとしていたところ、月日は流れて、赤間先生は永遠の旅立ちに赴かれたのである。


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故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-1

伊藤 哲也

故・赤間先生と斎藤一

 斎藤一のことを永年、調べてこられた赤間倭子(しずこ)先生が他界された。故・赤間先生というと斎藤一のことを思い浮かべる。斎藤一についてさまざまなものを書き残されてきているからであろう。そして、私は赤間先生が生前の元気な時に、「私が一番、力を入れているのは排句なの!」と言われて驚いたこともありました。しかし、故・赤間先生は、俳句部門で曲水新賞、水巴賞、麻賞などを受賞されているのであるから。
私自身、故・赤間先生の身体が衰えて病で床に伏せる直前に「うら切るも 知る指切りや 冬絡ませ」という句をいただいたことがあった。
赤間先生が斎藤一のことを調べようとして藤田五郎直系の子孫・藤田勉氏に依頼文を出された。すると、藤田勉氏が赤間先生の藤田家訪問前にいろいろと様子を見に来られたことも有名な話である。その後、赤間先生は藤田家と親しくなっていき、斎藤一の遺品をいただいたりされた。その後、藤田五郎の妻の実弟の子孫である高木家の方を紹介していただくなど、輪を広げてい
かれている。藤田家とともに高木家の古資料の提供も受けるなど、主婦業をこなしながら、数多くのいろいろなことを知り得ることができた。現在の斎藤一のデータは、赤間先生なくしては成り立たなかったのは、誰もがわかることである。そして、一生をかけて赤間先生は斎藤一研究に打ち込まれていく。だが、赤間先生が他界された今年(平成十九19年)は、高木家当主が他界して五年、藤田勉氏が他界されて三年、赤間先生の旦那様も数年前に他界されてしまっているのも忘れてはいけないであろう。
藤田勉氏の三回忌の供養には、ご夫人や息子の太郎氏も会津若松市の阿弥陀寺に赴いている。藤田家墓石の修繕は二度行われているが、その時のことは写真込みで、改めて書き直させていただく。
故・赤間先生は、執筆活動に対応して、現地へ見に行かれるなど、さまざまな努力をこなしてこられた。三十一人会での活動だけではおさまらなかったのであろう。また、斎藤一を慕う御心から「斎藤一の会」を立ち上げられたのだから。私はツアーとかには参加せずに、忘年会のみ参加してき。山梨ツアーの時も公的用事が入り、その次に予定されていた二本松は実現できないままに現在に至っている。