木村摂津守の家族--1

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第二部 木村摂津守の家族--1

木村摂津守の次女清と同居して育った孫の金原周五郎氏(1919~1991)から聞いた話によると、木村摂津守は、最後は勘定奉行となり、崩壊する幕府の後始末をつけたあと徳川家に辞職を願い出て、明治元年(1868)七月二十六日に三十六歳で隠居し、家督を八歳の長男浩吉に譲り、芥舟と号した。
明治後は再々の出仕の要請を断り、徳川に殉じた。
このとき、芝新銭座から武蔵府中へ転居。
府中に居住中も、福沢諭吉は間断なく木村芥舟を慰問に訪れた。
明治二年十二月、喜彦(よしひさ)(1796~1869)が没した。享年七十三歳。
芥舟は、父の墓前でアメリカ大統領に拝謁しなかったことを深く詫びた。
明治四年八月に武蔵府中から東京四谷坂町へ移転。
このときの木村家の家族は、芥舟、妻弥重、長女利子(その後、他家へ嫁す)、長男浩吉、次女清、次男駿吉の六名であった。(金原周五郎著『雲白く・我が祖先を尋ねて』より)
四谷坂町へ移転後すぐに、福沢諭吉が木村邸を訪れ、芥舟へ経済の支援を申し出た。
「以前より、木村様が何か不慮の災害に遭われたときには、わずかながらでもお助けをさせていただこうと思っておりましたが、これではその災いを待っているようで、私の本意に合いません。これからは、毎年(まいとし)、心ばかりのわずかな物を差し上げたく存じますので、何卒お受け取りくだされないでしょうか」
さらに福沢は、芥舟の弥重(やえ)に向かって神妙な顔つきで言った。
「木村様のお引き立てのお蔭で、今では、福沢諭吉は大丸《大丸百貨店》ほどの豊かな暮らし向きになれました。奥様のお心をお慰めさせていただきたいので、いつでも拙宅にお出でいただき、妻錦と語らうなど、いつまでもご逗留ください」
その後、福沢から毎年盆と暮れには金銭や品々、そして木村芥舟が好きな食べ物がいくつか添えて届けられるようになった。
こうして、福沢諭吉の経済支援を受けた木村芥舟は、子弟の教育に力を注いだ。
長男浩吉を海軍兵学校(九期)に入れた。浩吉は兵学校を席次第三位で卒業した。
二女清は東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)を卒業。
次男の駿吉は東京予備門(旧制一校、東京大学教養学部の前身)を卒業した。