木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話-7

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

3.木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話-7

 福沢諭吉は、その日の夕食後厠(かわや)に立ち、その帰りに歩行困難となり、家人に助けられて就寝。夜になり、医師の往診があったが、すでに昏睡状態に陥っていた。
脳溢血の再発と診断された。
昏睡する福沢諭吉の脳裏に、懐かしい人たちの顔が浮かんでは、消えていた。
厳とした父、凛とした母。
穏やかな桂川甫周と聡明なひとり娘みね。
厳冬の太平洋の荒波に翻弄されながら難航する咸臨丸の中で、福沢と同じように船酔いをせずに動き回った浜口興右衛門、中浜万次郎。
木村摂津守の従者として一緒に咸臨丸に乗り、親しく行動を共にした長尾幸作と斉藤留蔵。
そして、木村と肝胆相照らしたハワイのホノルルで共に見上げた、あのときの真っ赤な太陽。

福沢諭吉は、翌月の明治三十四年(1901)二月三日午後十時五十分、三田慶応義塾内の私邸にて生涯を終えた。
享年満六十六歳。戒名『大観院独立自尊居士』。
福沢諭吉死去の報に接した木村芥舟が、つぶやいた。
「先生が逝ってしまわれた」
木村は、深い慟哭の極みに沈んだ。
そうして、海軍一家の長、木村芥舟も、同年十二月の初めに病床に臥し、同月九日、土手三番町の私邸で、福沢諭吉との約束を守るかのように後を追い、静かに生涯を閉じた。
享年満七十一歳。戒名『芥舟院殿穆如清風大居士』。
意識が薄れていく木村の頭の中で、米国桑港(サンフランシスコ)に向かって嵐の中を木の葉のように揺れて難航する咸臨丸の提督室の中で、福沢と体を支え合いながら二人並んで座り、語り合った、あのときの光景が浮かんでいた。
二人はともに咸臨丸で、黄泉(よみ)の国へ渡って逝ったのであろうか。