「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
3.木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話-5
咸臨丸が港に到着すると、サンフランシスコは町をあげて大騒ぎになった。
上陸した日本人も、迎えたアメリカ人も、お互いに好奇心のかたまりであった。
洋上の咸臨丸に、連日サンフランシスコ市民が大勢ボートに乗って見学に訪れた。
咸臨丸は女性の乗船を遠慮してもらう措置を取ったものの、勇敢なアメリカ婦人は男装をして、見学に訪れ、乗船してきた。
提督の木村摂津守は、そうと知りつつ、彼女たちの乗船を黙認して丁寧な応接を行い、彼女たちが下船するときには、日本から用意してきた「かんざし」を乗船記念としてプレゼントするなど粋なもてなしをした。
地元の新聞記者たちは、日本人の一行を詳細に観察して報道した。
木村摂津守について、ある紙は次のように報じた。
『彼は一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で四十歳前後と見受けられた。
やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度であらわれた。彼は白い足袋をはき、白の草履をはいていた。また濃茶色の上衣と紺色の羽織を着用、太い銀色の紐で結んでいた。また左の腰には大小の刀を帯びていた。
大小二刀を帯びることが出来るのは士官であり、刀は非常に鋭利なものである。軍艦奉行の髪は前額をそり後部で美しく束ねてあった。そして、軍艦奉行の部屋の正面の壁には大統領ブキャナンの肖像が掲げられているのを認めた。』
他紙は、次のように報じた。
『アダムラール(木村摂津守)は頭上より足の指先に至るまで貴人の相貌があった。
軍艦奉行には四人の従僕が常につきそい、非常に忠実に仕えていた。上官も決してかれらを不必要にどれい視するようなことはなかった。』
木村は、サンフランシスコ、その周辺で過ごした五十日の間、何人かのアメリカ海軍士官やその家族と親しく交流した。