「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
2.今泉みねの話-8
そして、きれいな端布は、福沢諭吉につながる今泉みねの大切な思い出の品として、生涯大切にした。
このような今泉みねの話から、木村と福沢の二人の性格と気持ちの通い合いが鮮やかに浮かび上がってくる。
職務に忠実であろうとした木村摂津守の生まじめさと、木村の多忙な様子を見て機転を利かした福沢諭吉の優しさが滲み出ている。
そして、可愛いがっていた幼いみねのために、サンフランシスコの商店の軒先を物色して歩き回っている若き日の福沢諭吉の姿が彷彿としてくる。
帰国後、福沢は頻繁に木村邸を訪れた。
その際には、必ず季節の到来物の手土産を忘れず、そのほか、横浜で発行され始めた新聞や、書物などを持参した。
自著の『西洋事情』が刷り上がると、直ぐに木村のもとへ届けた。
また、木村摂津守喜毅の人となりについては、今泉みねが前出の『名ごりの夢』の中の『新銭座(しんぜんざ)のおじさま』という章で、次のように懐かしんでいる。
「母方でのたった一人のこの叔父は、お役目柄お濱を離れて、芝の新銭座に住んで居りました。(中略)
叔父はきつそうな大きなお武士(さむらい)で、それでいて愛のこぼれるような方で、子供に対してもいつも少しも礼をお欠きにならず、ピタリと手をおつきになっておじぎをおかえしになったので、子供ながら恐れ入りました」
そして、新銭座の叔父様といえば、子どもの時分から最後のお別れするまで、いやなお顔を見たことはありません。ニコニコとして『いい子だね、おとなしいね』とおっしゃったのが耳について忘れられませぬ。
さてこの叔父が軍艦奉行の役柄、咸臨丸で米国に行くことになりました時は大変な騒ぎで、何しろ軍艦といっても和船も同様な位のもので太平洋を乗りきろうというのですから、生きてかえれるかどうかもわからないくらいに思って、知らない人まで邸の前に押しかけたそうでした