今泉みねの話-4

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

2.今泉みねの話-4

「福沢さんがいつも口にされていました。『物乞いにむやみに物をやってはいけません。物乞いはなまけ者が多いから、むやみに物を遣るのはなまけ者を増やすようなものです』この福沢さんのお話は今も忘れておりません」
さらに、
「福沢さんは、その他にもいろいろ教えてくださいました。例えば、『世間に向かって話を膨らませて喋ってはいけません。話を膨らませると、話の中に必ず嘘が入り込み、辻褄が合わなくなります。そうなると人を惑わし、嘘つきの謗りを免れません。後々、世間の笑い物になります』」
浩吉には、みねが明かしてくれた話に、福沢諭吉の人間性に迫る鍵が潜んでいるように思われた。
みねの回想をひと通り聞き終わった浩吉は、話の向きを変えて質問した。
「ところで、福沢先生が咸臨丸に乗ってアメリカに渡って行かれたときはどうだったのですか」
みねが、思い出すように答えた。
「ある師走が近づいた日の夕方、私は疾(と)うにお帰りになったと思っていた福沢さんが突然、父が書見をしている部屋に現れて、両手を畳につき、父の顔を真っ直ぐに見つめて熱心にお話をしている姿を、向かいの部屋の廊下から目にしました。
その後、新銭座のおじさまが福沢さんをお連れになって、海を渡ってアメリカというところへ行くことを大人たちから聞かされました。幼かった私には、何のことやらよく飲み込めませんでした。
ただ、福沢さんに『おみや』をおねだりしたことを覚えています」
そして、補うように話を続けた。
「大人になってから、あのときのことを福沢さんにお尋ねしたことがあります。
福沢さんがお答えになったお話は次のようなものでした。
『自分が幕府軍艦咸臨丸に乗船して、アメリカへ渡ることができたのは、桂川甫周先生の奥方久邇様が咸臨丸の提督を奉じられる木村摂津守様の姉上に当たられるので、甫周先生に、軍艦奉行の木村摂津守様への口利きをお願いしたことにありました。私は、海軍の長上官である木村摂津守様なら、身分相当に従者を連れて行くに違いないと考えました。私はどうしても、その船に乗ってアメリカに行ってみたい志があったものの、木村様というお方は一向に存じ上げなかった。大阪から出て来たばかりの私には、そんな幕府の偉いお役人に縁はありませんでしたから。
そこで、桂川家は木村家とは親類、ごく近いご親類でしたので、甫周先生お願いして『どうしても木村様の御供をしてアメリカに行きたいので、紹介して下さることは出来ないでしょうか』と懇願して、甫周先生に紹介状を書いていただいて、木村様をお訪ねしてその願意を述べたところが、木村様は即刻許してくだされ、『宜しい、連れて行ってやろう』ということになった次第です。
こうして、私は直(すぐ)に許されて木村様の御供をすることになったのです』
福沢諭吉は、咸臨丸提督木村摂津守喜毅の従者になって、万延元年(1860)正月十九日浦賀港を出帆、日本初の太平洋横断航海に臨んだ。