2.今泉みねの話-2

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

2.今泉みねの話-2

「福沢諭吉さんは、大阪堂島、中津藩大阪蔵屋敷内でお生まれになりました。
父上の名は百助(ひゃくすけ)殿(四十三歳)。大阪蔵屋敷にお勤めの廻米方、十三石二人扶持。母上は、お順様(三十一歳)。諭吉さんは二男三女(男、女、女、女、男)の五人目でした。
福沢百助殿のご先祖は、信州福沢の人ということです。
翌年の天保七年六月一八日に父上百助殿が四十五歳で急死されました。福沢さんが一歳を過ぎたときのことです。
死因は、脳溢血の病死とも、配下の非曲が知られ、監督の責を負って自刃したとも言われています。
福沢さんが赤児の頃の出来事でしたから、福沢さんは『詳(つまびらか)ならず』とおっしゃっていました。いずれにしても、百助殿は好学、清廉、計数の才腕すぐれて有能、識見の士であられたようです。
母お順様は、その年、長男三之助(十一歳)殿を初め、三人の娘、そして一歳八ヵ月の諭吉殿、母子六人で中津へ帰られました。そして、同年十月に三之助殿が家督を相続されました。
二十五歳になられた福沢諭吉さんが、藩命によって修行先の大阪の緒方洪庵塾から江戸に出てこられたのは、安政五年(1858)十月中旬のときでした。
そして、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に住み、そこで蘭学の家塾を開かれました。さらに、中津藩中屋敷の近くにあった、徳川将軍様の代々の御殿医を務めてきた桂川家第七代桂川甫周の家に度々出入りされるようになりました。
その桂川甫周が私の父です。
私が生まれた桂川の屋敷は築地の中通りにありました。
福沢さんはその中通りの家によくお顔をお出しになりました。
福沢さんは、お体もお顔の作りもとても大きい方で、桂川の家においでになると、体の重みでどっしり、どっしりと家中に音がして歩き回わられるので直ぐにわかりました。
私が六歳か七歳の時分でした。