「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
1. 福沢諭吉の激怒-6
福沢の生き様からすれば、たとえ恩人の子息であろうとも、言うべきことは言ったつもりだった。
ただ、『言い過ぎた』という後味の悪さが胸の中に澱んだ。
「所詮、子は子。子息には、私の思いは伝わっていなかったのだ」
福沢は、幼い頃からわが子のように慈しんできた木村浩吉を、思わぬことから激しく叱責し、冷たく突き放してしまった。
その後悔が、胸に突き刺さった鋭い棘のように心の中で疼いた。
その胸の棘が、太平洋上での遠い怒りを思い起こさせた。
「それにしても、大洋の真ん中で仲間を置き去りにして、日本へ帰ろうとしたようとした、あの男の、あのときの卑怯な振る舞いは、たとえ死んでも絶対に許されるものではない」
福沢は、じっと一点を睨み付けた。
2.今泉みねの話-1
数日後、木村浩吉は、重苦しい気持ちを引きずったまま、今泉みねの居宅を訪ねた。
今泉みね、四十三歳。
今泉みねは、徳川将軍家代々の奥医師を務めた七代目桂川甫周国興の次女(長女は早世)として、江戸の築地で生まれた。
母は浜御殿奉行木村又助喜彦の娘で、名を久邇(くに)といった。
久邇の弟が、木村浩吉の父、軍艦奉行木村摂津守喜毅だった。
つまり、浩吉とみねは従姉の関係にあった。
みねは、明治四年(1873)に十九歳で今泉利春
と結婚した。夫利春は明治政府に仕え、司法官の仕事に就いていたが、赴任先の鹿児島で赤痢を発症し、五十一歳で生涯を終えた。
夫の死後、三十九歳のみねは子たちを引き連れて東京に戻った。
東京麹町区にあった今泉みねの家の座敷で、木村浩吉は、福沢諭吉との先日の顛末と、自分が困り果てている胸の内を包み隠さずに明かした。
みねは、幼少の頃から聡明で鋭い観察力を持つ女性として知られていた。また、幕臣の娘としての気概を持ち続けている女性でもあった。
木村浩吉は、頭の回転が速いみねに向かって隠し立てをした話は到底できるものではないと観念していた。
みねは、硬い表情で木村浩吉の話を聞き終えてから、浩吉の苦衷を察して穏やかな口調で話しだした。
「なんということを福沢さんに申し上げたのでしょう。木村芥舟の子息ともあろうお方が、そういう失礼な振舞いをすれば、ご立腹されるのは尤もなことだと思います。
福沢さんが父上に差し上げておられることは、父上のお暮らしの糧へのご支援のためではありません。仮に、福沢さんのお気持ちがその辺りにあるようであれば、恐らく、あなたのお父上はそれをお受けにはなりますまい。
確かに、あなたのお父上と福沢諭吉さんの最初のご縁は、あなたが生まれる前の海の上のことでした。あなたがお父上と福沢さんとの関係を正確にご存じないのは当然のことかもしれません。
このままでは、あなたは、福沢さんに大変失礼な気持ちのまま、ご交誼をいただくことになってしまいます。
今日ここで、私から、福沢さんのお若かった頃のお話をして差し上げましょう。そして後日、あなたのお父上から、福沢さんへのお気持ちをお聞きになってみたらいかがですか」
そう前置きをして、今泉みねは話し始めた。