「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
1. 福沢諭吉の激怒-5
木村浩吉は考え込んだまま、帰りの人力車の上にいた。
「生活支援の辞退を申し出ただけなのに、先生に怒られてしまった。なぜなのだろう」
穏やかな日和の師走の町は、先の戦勝気分がまだ続いているような、晴れやかな賑わいで溢れていた。
浩吉ひとり、世間の賑わいからまったく疎外された、音のない世界に沈んでいた。
「あぶないよ」
車夫が、疾走する人力車の前を無理に横切ろうとした通行人を、大声で制した。
車夫の叫び声で、浩吉は、ようやく我に返った。
そして、深い感動の中に入り込んでいった。
それは、激しく叱られたことによって、福沢の心意を知り、父木村芥舟に対する福沢諭吉の秘めたる友情の強さに気がついたからだった。
「そういう福沢先生をご立腹させてしまった」
浩吉の心が痛んだ。
浩吉は、もっと正確に福沢諭吉の人間像を知りたいと思った。
「福沢先生の若い頃は、どういうお方だったのだろう。
誰に聞けば分かるのだ」
ガタガタ揺れる人力車の上で、体を上下に弾ませながら思いを巡らせた。
そしてようやく頭の中に、親戚筋に当たる今泉みねの聡明な顔が浮んできた。
今泉みねは、浩吉より六歳年上の父方の従姉で、幼い頃から福沢諭吉の身近にいた女性だった。
「みねさんに聞いてみよう」
浩吉は、謎の先が見えるかも知れないと思った。
一方、屋敷の奥の間に残された福沢諭吉は、一向に頭に飛び込んでこない書物の文字に倦むと同時に、内心の腹立ちが収まってきた。
「戦功を立てた位で、あの物言いは何ごとだ。『得意冷然、失意端然』という武人の心構えができていない。
父上の芥舟様は、非常なご苦労をされて厳冬の太平洋を横断された。だが、その功を一切口にされず、常に冷然としておられる」
一時は、そういう気持ちで怒りに身を委ねたのだが、木村芥舟の顔が脳裏に浮かんだ途端、急に怒りが引いてしまった。