「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
1. 福沢諭吉の激怒-4
「これからは、先生のお力を戴かなくても、私どもでどうにか過ごしていくことができると思います。つきましては、今後の御恵贈は誠に失礼ながら御辞退申しあげたく存じます」
木村浩吉は頭を下げたまま、一気に話し終えた。
そして顔を上げ、福沢の目を見つめて謝意の意を表そうとした。
ところが、木村浩吉の目に入った福沢の顔面は瞬く間に激しく変わっていた。先ほどの満足そうな笑みが消え、抑えがたい怒りで満たされていた。
福沢は、額に太い青筋を立て、険しい表情で木村浩吉を睨み返した。そして、一語一語鋭い怒気を浴びせ、烈火の如く叱りつけた。
「何を、筋違いの話をされるのか。
そのような思い違いをされては、この福沢、はなはだ不本意。
私は、貴方様に金子を差し上げているつもりは毛頭ない」
福沢は色をなし、さらに声を荒げた。
「私は、芥舟さまから受けたご恩に尽くしたいだけのこと。
そのことで、ご子息の貴方から、とやかく言われる筋合いはまったくありますまい」
言い終えると、憤怒の形相で傍らにあった書物をふるえる右手でにわかに取り上げ、「帰れ」と言わんばかりに、木村浩吉の存在を無視して読み始めた。
手にした書物が、怒りでぶるぶる震えた。
木村浩吉は、福沢諭吉が露わにした激しい怒りと、投げつけられた厳しい言葉に気が動転し、頭の中が真っ白になった。
膝の上のこぶしを固く握りしめ、暫く福沢の様子を窺ったものの、取り繕うすべがないことを悟ると、姿勢を正して静かに立ち上がり、
「失礼いたします」
と深く一礼して、屋敷を辞去した。