福沢諭吉の激怒-2

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

1. 福沢諭吉の激怒-2

 健康を害する以前の福沢諭吉は、福沢の方から木村芥舟の屋敷を訪れるのを常としていた。
木村家を訪れる際には、必ず、紋付羽織袴の正装で、邸の一町ほど前で馬車から下り、歩いて木村家の門をくぐった。
大雨、大雪の日であろうが、風の強い日であろうが、かならず乗り物から下り、自分の足で訪れた。
馬好きの福沢だったが、木村家の門の前に馬車を横付けることは、決してしなかった。
だが、その日は、病み上がりの福沢を気遣い、木村芥舟自ら福沢邸に足を運んだ。
木村は、懐かしく太平洋横断時の回顧やら海防の意見を交換した後、夕刻に辞した。
その際、奥の間を退出する木村が福沢に向き直って、しみじみとした口調で言った。
「先生、くれぐれも体をお労りください」
福沢は、めずらしく気弱な声で応えた。
「木村さま、私の余命も残り僅かとなったようです。あと一、二年の命でしょう」
木村は福沢の顔を見つめて敢えて打ち消さず、深くうなずき返した。
そして、静かな口調で答えた。
「先生、逝くときはご一緒に参りましょう」
福沢が、微かに笑みを浮かべて応じた。
「木村さまとならば、何の畏れもございません」
木村が、小さくうなずいた。
「咸臨丸でご一緒したときのように」
二人は眼を見つめ合い、暫し昔の夢に耽った。
福沢諭吉の激しい怒りを買った海軍軍人木村浩吉は、文久元年(1861)七月生れ、この年三十七歳。
父摂津守が太平洋横断航海の快挙を成し遂げた翌年に、木村家の長男として生まれた。
この日、海軍中佐木村浩吉が福沢諭吉を訪問した表向きの目的は、二つあった。
一つは、この年の九月に福沢が突如、脳溢血を発症したが、奇跡的に大患を乗りこえ、無事に六十四歳を迎えられたことへの祝意を述べることだった。
もう一つは、帝国海軍で二階級特進して海軍中佐に昇進したことを報告するためであった。