「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第二部 咸臨丸、帰還す
3.咸臨丸、ハワイに寄港-5
後年、緒方洪庵夫人が次のような談話を残している。
『福沢さんは塾に居たときから、他の門生とは万事が違っていて、この少年はきっとエライ人物になると、主人も云い、わたしもそう思っていましたが、しかし、あんなにエライ人になろうとは思いませんでした。感心なことには、その時から人より金を借りるということが、大嫌いなかわりに、至って倹約の人で、心がよかった』
福沢が続けた。
「安政五年(一八五八)十月、私が二十五歳のとき、中津藩江戸屋敷からの藩命によって、江戸在勤となり江戸に出てまいりました。そして、中津藩の中屋敷(築地鉄砲洲)の空家で蘭学の塾を開きました」
因みに、一階は六畳一間、二階は五畳一間のこの小さな学舎(まなびや)が、後の『慶應義塾』のルーツである。
福沢の顔が紅潮してきた。
「弟子を取り、蘭学を講じていたところ、アメリカから黒船がやってきました。
私は見物のつもりで、新しく開港された横浜へ行ってみました。ところが、そこで大きな衝撃を受けたのです。どこをいくら歩き回っても、オランダ語がまったく通じなかったのです。横浜から帰って、気持ちが実に落ち込みました。足の疲れどころの騒ぎではありません。今まで数年のあいだ死に物狂いになって、オランダの書物を読んで勉強しました。その勉強したものが、何の役にも立たなかったのです。しかし、落胆している場合ではありません。学問で身を立てようと決心した私です。そこで、新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を決め、奥平の藩に嘆願してホルトロップという英蘭対訳発音付き辞書を金五両で買ってもらい、その字引と首っ引きで、毎日毎夜ひとり勉強をしました。
そういうとき、桂川甫周先生から、ご親戚の木村さまが軍艦奉行になられて咸臨丸でアメリカへお渡りになるという話を伺ったのです。私はアメリカ行きを強く願い、すぐさま甫周先生にお願いして木村さまへの紹介状を書いていただいたのです。
それから先のことは、木村さまもご存知の通りです。
木村さまのお蔭で、私はアメリカへ来ることができ、アメリカの文化、文明、習慣などいろいろ生の知識を収めることができました。アメリカ人の気質も直に観察できました。
英学という生涯の大きな財産を得ることができました。私の将来を開くことができました。これもひとえに、木村さまのお蔭でございます」
話を終えた福沢は、木村に向かって深々と頭を下げた。