「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第二部 咸臨丸、帰還す
3.咸臨丸、ハワイに寄港-2
一方の木村は、すでに、難航する往路航海の咸臨丸の上で、福沢を『先生であり友人だ』と思っていた。
福沢の内心の動きを知ってか知らずしてか、木村が笑いかけた。
「先生、江戸に戻ったら、一緒に、うなぎとそば切りを食べに出かけましょう」
福沢は、木村の顔を見つめ返して、大きく頷いた。
「木村さま。ぜひ、ご一緒しましょう」
沈みゆく南国の真っ赤な太陽が、木村と福沢の姿をホノルルの路上に明るく浮き立たせた。穏やかな波の音と鮮やかな茜色の夕焼けが二人の気持ちを滑らかにした。
福沢は、ゆったりとした気分でハワイの刻(とき)を過ごした。将来への不安は何もなかった。
その夜、打ち解けあった二人は、沖合に停泊している咸臨丸の木村の部屋で遅くまで話し込んだ。
福沢は、『大波に翻弄された往きの咸臨丸の中では充分に話せなかった自分の気持を、ぜひ木村さまに聞いて欲しい』という想いでいっぱいだった。
ようやく、ハワイの穏やかな自然の中で、木村摂津守に、今までの自分を洗いざらい話すことができた。
「私の父は豊前中津奥平藩の士族百助(ひゃくすけ)、母於順(おじゅん)と申し、父の身分はやっと定式の謁見ができる程度の士族中での下級身分でした。足軽より数段宜しい程度の身分です。
父は大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番していました。兄弟は五人。皆大阪で生まれました。長兄の次に女の子が三人。私末子(ばっし)でした。私が生まれたのは天保五年(1834)十二月十二日で、父四十三歳、母三十一歳のときの誕生です。「諭吉」という命名は、父が入手した漢籍「上諭条例」という本からとったそうです。
父はそれから二年後の天保七年六月に脳溢血によって急死しましたが、そのときの事情は詳らかではありません。私が一歳八ヶ月のときでした。後になって父の友人だった人から聞いたところによると、父は、好学、清廉、計数の才腕にすぐれた優れた有能、識見の人だったそうです」
ここで福沢は一息つき、しばらく黙り込んだ。そして、話しだした。