「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第二部 咸臨丸、帰還す
2.咸臨丸の出港-2
この合議の実質的な指導者は佐々倉桐太郎(運用、砲術方筆頭)、浜口興右衛門(運用方)、小野友五郎(測量方)、肥田浜五郎(蒸気方)たちであり、これに中浜万次郎も相談役として加わったと思われる。
合議制については、帆仕立方水夫・石川政太郎がサンフランシスコ出港間もない三月二十六日に書いた日記『安政七申歳正月十三日・日記』にも出ている。
『朝より少々曇り、始終風はなぎ也、今日はこふしん(庚申)に当る故右の天気也後成程(のちになるほど)風も追々吹き、誠宜敷(よろしき)都合なり、今日士官之内、小野様・浜口様より異人ら候得共(そうらえども)役に立たず、舵取、右異人四人は日本水主(かこ)舵取四人二時替(ふたといが)相勤呉候様被仰候得(あいつとめくれそうろうようおおせられそうろうえ)ば、皆々水一統之義(いっとうのぎ)は御船乗廻し付而(つきて)は余人を便(たよ)りニ不到(いたさず)、我々計(ばかり)ニ而(にて)日本迄乗付(のりつけ)候由(そうろうよし)を早速申出候事。』
つまり、この日、士官の小野友五郎と浜口興右衛門から水夫子頭は、「同乗した異人五人(うち一人は異人食専用コック)は役に立たないので舵取りにまわす。四人は一人ずつ四時間交代で、咸臨丸の当直水夫四人と一緒に航海当直に入れる」と申し渡されたのである。
この状況について、先出の『咸臨丸、大海をゆく』の著者である橋本進元日本丸船長は、
『異人四人を敢えて「役に立たず」といって、マストに登らせないで舵取りに回した小野と浜口の真意は一体どこにあったのだろうか。おそらく、帆船乗りとして最も重要な、しかし日本人水夫が最も苦手とする「操舵技術」を、異人に付いて早く習得させたかったのが士官らの真意だったのではあるまいか。
なお、このような申し渡しは、船将もしくは筆頭士官(いまでいう一等航海士)一人でよく、二人連名ということは合議の結果を周知させる手段であったのかもしれない。
一方、水夫子頭にしてみれば、士官らがやっと自分たちの航海技術を認めてくれたという思いがあるから、早速、「異人(アメリカ人)に頼らず自分たちの力で日本まで帰りましょう」と小野と浜口に申し出たのだ。水夫らに本音を吐かせ、彼らを本気にさせたのである』と説明しておられる。