「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第二部 咸臨丸、帰還す
2.咸臨丸の出港-1
万延元年閏三月十九日午前六時(1860年5月8日)咸臨丸はボイラーに点火し、帰国の準備にとりかかった。
午前八時、水先案内人が乗船、直ちに錨を揚げ、船首を港口に位置するアルカトラス島台場(砲台)に向けて機走を開始した。
午前九時、同台場の前を通過する際、咸臨丸から、アメリカでの諸々の配慮に感謝して礼砲二十一発を送った。日本の軍艦が外国に向けて送った、日本国最初の礼砲だった。アルカトラス島の砲台からも二十一発の応砲が送られてきた。
日米両国間で繰り広げられた厳粛なエールの交換だった。
咸臨丸乗組員一同、固唾を呑んで日米友好の端緒となるこの光景を脳裏に焼き付けた。
午前十一時、港口から三海里出たところで水先案内人が下船した。
午後七時近くに、咸臨丸はエンジンを止め、スクリューを引き上げ、すべての帆を張った。船は北からの追い風を受けて、カリフォルニア海流に乗って南下を始めた。
適度の風を背にして海の上を順調に帆走する咸臨丸の船上では、日本人乗組員の操船活動が非常に生き生きとしていた。往路航海のときとはまったくの様変わりだった。
往路航海においてブルック大尉が心血を注いで日本人に施したシーマンシップ教育が見事な結実となって顕れたのだ。
咸臨丸の順調な航海の様子を、蒸気方の小杉雅之進は『航海日誌』に次のように記している。(橋本進著『咸臨丸還る』より)
『壬三月二十八日 今朝午後より微風続きて、追々海面の模様よろしく、終に貿易風帯に至らんとす。衆義(衆議)して蒸気を止む。』
このように、咸臨丸は北東貿易風帯に入り、乗組員たちは初めての貿易風を体で感じ、穏やかな航海を楽しんだ。
復路航海における士官の当直割(シフト)については、木村摂津守の英断で大きく変更されたことは前述したが、この小杉の航海日誌によると、復路の航海では、さらに、合議制による操船態勢が取られたことが読み取れる。
復路航海を合議によることにした訳は、木村摂津守がメア・アイランド海軍造船所で修理に携わっていた士官たちの間に「我が在らざれば取締向如何掛念(けねん)なきにもあらず」とする空気があることを察知し、往路航海に見せた艦長勝麟太郎の身勝手な行動を予め廃除しておく必要があったからだ。