木村摂津守の無念-2

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第二部 咸臨丸、帰還す

1.木村摂津守の無念-2

 このときの木村摂津守の心中を、上記の『木村芥舟翁履歴略記』から、要約して記すと次の通りになる。
『出帆前、「万一、使節の中に病気が発生するような事故があった場合は、摂津守が代わって使節を務めるように」との命令があったので、私はこの地(サンフランシスコ)からワシントンに行くべきであったが、わが艦(咸臨丸)がここに停泊中の指揮命令には、私がいなかったらどうしようもない。乗組員の中にも不安を唱えて、私がワシントンへ行ってしまうことを心配する者もでてきた。士官たちの気持ちを忖度すると、結局、私は、ワシントンへ行くことができなかった』
つまり、士官の間には、木村提督のワシントン行きについて困惑の色が広まっていたのだ。
それは、木村提督が下船してしまうと、信頼を失墜した艦長の勝では乗組員を統率することが難しく、ましてや操船の指揮も取れず、乗組員全員揃って無事に日本へ帰ることができなくなると恐れたのだ。
また、木村がいないと、往路航海で勝が見せたわがままな行動を抑える者が誰もいなくなってしまうという懸念もあった。

福沢諭吉は、浦賀を出港する前に主人の木村摂津守から、
「咸臨丸が無事サンフランシスコに到着してからは、上様から命じられた通りに咸臨丸から下船し、アメリカの船に乗り換え、ワシントンへ向かう。サンフランシスコから日本へ帰る咸臨丸の操船の指揮は、艦長の勝麟太郎が取る」
と、聞かされていた。
「先生もご一緒に行きましょう」
とも、内々言われていた。
福沢は、ワシントン行きをめぐる木村と勝の確執が生じるまでは、木村摂津守に従ってワシントンへ行くことを期待していたが、実際問題として、士官たちの恐れと懸念は充分尤もなことだと思い、木村に向かって敢えてワシントン行きを話題にしなかった。
また、往路航海で共に苦労をした乗組員仲間の心中を察すると、進言できる筈もなかった。
二人だけになった船室の中で、木村が静かな口調で福沢に語りかけた。
「先生、誠に無念なことですが、私はワシントンへ行かずに、ここから日本へ帰ります」
福沢は残念な気持ちを押し隠し、木村に向かって深々と頭を下げ、礼を述べた。
「木村さま。ありがとうございました。木村さまのお蔭で、実際にアメリカの政治制度や社会を見聞することができました。帰国後の私の将来の道を開くことができました」
そして、アメリカの地で知った言葉を使って、自分の考えを述べた。
「木村さま、日本人は西洋人から学ぶべきことがたくさんあります。
日本の発展の礎となるのは教育にあります。日本人それぞれが自由と平等になるためには、人びとが自信と誇りを持ち、品位を保つことが必要です。
そのためには、まず、人民の意識と教養を高めなければなりません。各人が自分一人ひとりで判断できる能力を養うことが肝要です」
木村は、同じ思いで深く頷いた。