「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第二部 咸臨丸、帰還す
1.木村摂津守の無念-1
万延元年(1860)三月八日、遣米使節団の一行が乗ったアメリカ軍艦ポーハタン号がサンフランシスコに到着し、先着して待機していた木村摂津守と合流した。
木村は、使節団の一行と一緒にワシントンへ上がる
ことを考えたが、咸臨丸クルー内の雰囲気として、どうしてもワシントン行きを実現できない事情が発生していた。
木村は、そのときの様子を『木村芥舟翁履歴略記』に、次のように書き残している。
『出帆前、予に命じて、使節の内万一病気等にて事故あるときは、代わりて使節相勤むべしとの事なりしにより、予は此地より使節と共華聖頓(ワシントン)府に到るべき筈なれ共、吾が艦ここに滞舶中、我が在らざれば取締向如何と掛念なきにしもあらず、其の上乗組員の内にも異議ありて、予が華聖頓に到るを拒むものあり。我が使節の一行は華聖頓の方へ赴きたれど、予は此一行と同じく都府に到るを得ず、(後略)』
木村の本心は、
『ワシントンへ上がり、ブキャナン・アメリカ大統領に拝謁し、日米修好通商条約の批准書交換の式典に参加したい』
というものだった。
これが、軍艦奉行木村摂津守としての大戦(おおいくさ)の最終目的であり、これを果たすことが、木村家末代までの名誉であると、胸に深く秘めていたからだ。
脳裏に、先祖伝来の宝物を全て売り払い、三千両を用立て、戦費を整えた父喜彦(よしひさ)の顔が浮かんだ。
「父上、申し訳ありません。果たせずに、日本に帰ります」
息子喜毅は、心で詫びた。
そのときの木村の思いは『奉使米利堅紀行』(清書版)にも記されている。
『船の修理も畢(おわ)りぬれば、予速やかに出帆し帰国せんと思えり。如何となれば、吾輩の航海は今度権與(けん よ)(最初の事)とすれば、万一過誤の事あらんに吾国海軍起立の盛衰にも関係すべし、また七、八月の候に至ら颶風(ぐ ふう)(台風)の時となり舶士の尤も恐るる所なり、此地の滞舶巳に五十日余に及びしかども、此国の人亳(ごう)も(少しも)不快の事起こらず無事平穏なりしは、我国の威霊と諸士の謹直なるによるものにして、予の大幸とする処なり。(中略)予断然意を決して何事もなき内に帰帆せんと思えるなり。』
ところが、史料には、淡々とした表現でそのときの思いを記しているものの、実際には、世に知られていない内実があった。