「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
6.サンフランシスコにて-15
さらに、サンフランシスコ滞在中、招待されたアメリカ人の家庭を積極的に訪問して草の根交流を行い、あらゆる機会を通してアメリカの文明と人々の人間性に直接触れた。
訪問する際には、必ず従者の福沢諭吉に同行を命じた。命じることによって、福沢の行動を公的な色合いにする配慮をした。
そのときの経験が、帰国してからの二人の生き方、考え方に大きな影響を及ぼした。
後の時代に至り、明治二十四年、木村芥舟が六十二歳のときに著した『三十年史』に福沢諭吉が序文を寄せて、次のように木村への報恩の念を表わしている。。
『サンフランシスコに到着して、そこに滞在したのはわずか数ヶ月であったが、見聞すること全てが新しい知識、体験となった。以前から西洋の書物を読み、頭で考えて得た多少の知見も、このとき初めて実物に接して、自分の思想と食い違うものもあり、また正しく符合するものもあった。この航海は、自分の机上の学問を実の学問に変えたものといえる。生涯において、このこと以上の大きな利益というものは無い。この利益はすなわち木村軍艦奉行に知遇を得た賜であって、終生忘れることのできないものである』
また、木村摂津守は、同行の日本人医師二名に、オランダ人医師ヘルファーへ訪問のためベネシアに行くことを許可し、さらには、小野友五郎と岡田井蔵(せいぞう)がキリスト教会のミサに出ることも許した。すべて木村摂津守の裁断によるものだったが、異教国禁の江戸時代にあっては、まことに大胆な裁断であった。
木村摂津守は初めて訪問した外国にあって、何の先入観も抱かずにアメリカ人と交わり、何事にも忌憚なく振る舞った。江戸にあるときと違って、幕府に一々伺いを立てる必要がなかったから、『善』と信じたことは何でも実行し、配下の者にも実行させた。
木村軍艦奉行は、あらゆる場面において、咸臨丸の乗組員にアメリカの異文化を吸収させようと務めた。
そういう木村摂津守の人間性に対する厚い信任があればこそ、日本の開国近代化を進めようとした井伊掃部頭は敢えて木村摂津守に監察(目付)を付けなかったのであろう。
後日、木村が、『奉使米利堅紀行』という回顧録に記している。
『予塾(つくずく)思うに、此国の人皆懇篤にして礼譲あり今度(このたび)我国との交際を悦び、其傭婦、販夫に至るまで吾舶のはじめて来りしを快とせざるものなく就中(なかんずく)其官人はつとめて懇切周旋し、亳も我徒に対し軽蔑侮慢の意なきは、まことに我皇国の威霊ともいうべきなれど、また其国の風俗教化の善も思い知るべきなり』
木村芥舟が記したこの『善』に関する一文には、徳川幕府の崩壊と共に徳川に殉じて隠棲し、明治新政府からの度々の出仕要請を断り、国家百年の大計のための教育を重視し、ひたすら子弟の教育に気持ちを込めた木村摂津守の想いが現れている。
要約して、木村が感じたところをいえば、
『アメリカの人はみな相手のために親身になり、礼儀と恩義を保ち、信義と仁愛でもって、自然とへりくだってくれる。今度のわが国との修好を喜び、わが国の軍艦がアメリカに始めて来たことを、メイドや売り子に至るまでが、快く感じてくれている。とりわけ役人はつとめて懇切にあれこれと面倒をみてくれる。彼らが我々にほんの僅かでも軽蔑や侮慢の気持ちがないということは、この国の人々の人柄や精神性の良さと同時に、市民平等の教育の賜物であることを知らなければならない』
木村摂津守と福沢諭吉はアメリカへ渡ったことによって、木村は、就中(なかんずく)子弟の教育は、幼少の頃からの『善』の教育によってもたらされるものであることを知り、福沢は、国家の発展と安定の基礎は、万人に対する教育にあることを見極めた。
さらに、ふたりは、最先端をいくアメリカの技術水準の高さを実際に肌で感じ取ったことにより、列強に伍していくための日本のあるべき国家像として、技術立国をめざすための専門的な技術教育の絶対的必要性を強く心に感じた。