謹んで新年の御挨拶を申しあげます。
本年も宜しくお願いします。
宗像 善樹(喪中)
「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
6.サンフランシスコにて-14
晩年、木村が往時を回想して、妻の弥重(やえ)(1833~1918)と海軍少佐鈴木大三郎に嫁した娘の清(せい)(1863~1943)に、そのときの思いを述べている。
「命を落とした同胞を、彼国に残して日本に帰るときは断腸の思いであった。三人の望郷の念を思うと、涙がとまらなかった」
軍艦奉行木村摂津守は、咸臨丸がサンフランシスコ湾を出るとき、離れてゆく陸に向かって手を合わせ、源之助、富蔵、峯吉の冥福を祈った。
『さぞかし故国(ふるさと)へ帰りたかったことであろう』
木村芥舟は終生、異国で最期を遂げた三人をいたく心に留めていた。
平成の時代に入っても、日本の海上自衛隊の遠洋練習航海部隊がアメリカ・サンフランシスコに寄港した際には必ず、艦隊司令官が儀仗隊、音楽隊を伴ってコルマ墓地を訪れ、約百五十年前の江戸時代に異国で客死した三人の水夫の御霊を懇ろに弔っている。
式典には、現地のサンフランシスコ総領事や日本人慈恵会会長なども厳かに参列している。
慰霊の回数は、海上自衛隊発足以来すでに五十五回以上を超えるという。
悲しいことだけではなく、嬉しいこともあった。
後に、木村芥舟が家族に語っている。
「アメリカで一番感銘を受けたことは、アメリカ人の親切に触れときだった。アメリカの人たちは皆、懇篤にして礼儀があった。それは、あの国の風習教化がもたらす『善』によるものだと思った」
木村たち咸臨丸の人々が経験したアメリカ人の『善』の最たるものが、入院した病院の職員の親切で徹底した看護であった。アメリカ人医師や看護婦、従業員は、入院している者の人種を問わず、病室を常に清潔に保ち、毎日の清掃を怠らず、衣類、シーツも必要に応じて出してくれて、しかも一週間おきに取りかえ、病人の汚物も少しも気にせずに始末してくれた。
見舞いに訪れた木村や士官、水主たちは、この病院側の人道的な対応に深く感動した。
見舞いに訪れる機会のない水主たちも、病院を訪れた仲間からこの話を聞き、非常に感動した。当時、苗字もなく、日本では一人前の人間としての扱いを受けていなかった水主たちには信じられないくらいのアメリカ人の親切であり、人間的な扱いだった。
アメリカの人たちは誰彼(だれかれ)の隔てなく、入院患者全員に平等な看護をしてくれた。水主の中には、感激のあまり、声を上げて泣きだす者もいた。
木村は、病人だけでなく、失業者や老人、身体の不自由な人など、社会的弱者への救済制度が整っていることも、アメリカの風習教化の『善』だと受け止めた。そういう思いから、未亡人の団体への二万五千ドルの寄付を思い立ったのだ。