「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
6.サンフランシスコにて-13
咸臨丸の修理期間中、水主たちは日本への望郷の念を抱くと同時に、復路航海の難航に思いを走らせ、恐れ慄いた。
長崎小出町出身の火焚役子頭・内田嘉八は、日記『異国の言の葉』に記した。
『此の頃にて酒肴(しゅこう)等沢山御船(おふね)乗込中の不自由を忘れ相嗜(あいたしな)み居り然(しか)共(ども)帰帆の節如何成る難渋之程も計り難き故、只今日限(ただきょうかぎ)り而巳(のみ)相心得、倹約の心は少しもなく暮らし候事。』
内田嘉八の恐れには、それ相応の理由があった。
咸臨丸がサンフランシスコに到着後間もなく塩飽出身の水主の源之助と富蔵が亡くなった。
さらに、アメリカ滞在中常時十人前後の病人が海員病院に入院した。
咸臨丸がサンフランシスコを出帆後間もなく長崎出身の火焚の峰吉が死亡した。
死亡や病気の原因については正確に分からないが、往路航海ではたびたびの激しい時化に遭い、乗組員は炊飯できずに、干飯を立ったまま食べ、食事の時間も不規則であった。船室には終始海水が流れ込み、総がかりで必死にかい出す日が多かった。濡れたままの着衣で寝るという始末で、当然、全員が極端な睡眠不足に陥った。また、乗組員が持ち込んだ食料が腐敗し、また、勝が罹患していた流行風邪(インフルエンザ)が船中に蔓延した。
症状として、激しい下痢と高熱が続き、衰弱していったという例が多い。
『晴れた日は航海三十七日のうち七日くらい』という往路航海の厳しい惨状が、嘉八の心を慄かせた。
源之助と富蔵が亡くなったとき、木村摂津守は公用方の吉岡勇平に対し、石屋に注文して二人の墓を建立することを命じた。
木村が持参したドルで、岡田源之助と平田富蔵の立派な大理石の墓標がメア・アイランド滞在中に完成した。
峯吉の墓標も、サンフランシスコ市街のローレル・ヒルにある源之助と富蔵の墓に並んで立派に建てられた。
その後、三人の墓は、1902年に設立された加州日本人慈恵会によって、現在地のサンマテオ郡コルマの日本人共同墓地に移された。
今も、客死した岡田源之助、平田富蔵、峰吉の立派な墓は、サンフランシスコの南隣り、サンマテオ郡カウンティのコルマの日本人墓地にある。