「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
6.サンフランシスコにて-8
自信を持った福沢は、雨宿りがてらサンフランシスコの下町にあった写真館にふらりと立ち入り、そこのドーラという名の十四、五歳の娘と会話をして、ドーラと一緒にツーショットの写真を撮った。
福沢の英語は、ドーラとの会話でも充分に通用した。
福沢は、アメリカに馴染んだそのときの満足感ついて、後年(四十年後)、『福翁自伝』のなかで、福沢らしい表現で次のように語っている。
『(復路の咸臨丸は)ハワイに立ち寄り、石炭を積み込んで出帆した。その時に一寸した奇談がある。(中略)
ハワイを出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。
「これはどうだ。お前たちはサンフランシスコに長く逗留していたが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなどということは出来なかったろう。サアどうだ。朝夕口でばかり下らないことを言っているが、実行しなければ話にならないじゃないか」
と、大いに冷やかしてやった。
これは写真屋の娘で、歳は十五とかいった。その写真屋は前にも行ったことがあるが、丁度雨の降る日だ。そのとき私独りで行ったところ娘がいたから、
「お前さん、一緒に取ろうではないか」
というと、アメリカの娘だから何とも思いはしない。
「取りましょう」
と言うて一緒に取ったのである。
この写真を見せたところ、船中の若い士官たちは大いに驚いたけれども、口惜しくも出来なかろう。
というのは、サンフランシスコでこのことを言い出すと、直ぐに真似をする者があるから、黙って隠して置いて、いよいよハワイを離れてもうアメリカにもどこにも縁のないという時に見せてやって、一時の戯れに人を冷やかしてやった』
咸臨丸の乗組員は、サンフランシスコの写真屋に競うように出入りして写真を撮った。
最初は、閏三月一日頃、浜口興右衛門、肥田浜五郎、根津欽次郎、岡田井蔵、小永井五八郎、福沢諭吉の六人が、福沢が先に話した写真屋で集合写真を取った。このときの福沢は、他の五人と同じように、羽織袴に両刀を差した武士の正装姿で写真に収まった。
三月十六日には、小杉雅之進、松岡盤吉、鈴藤勇次郎、牧山修卿が写真を取った。
三月二十六日には、火焚子頭の嘉八も写真を取った。
乗組員それぞれが、写真の撮影を楽しみ、日本へのみやげにした。
提督の木村摂津守は、往路の太平洋上での乗組員たちの過酷な苦労と努力を十分認識していたので、サンフランシスコでの乗組員の行動について厳格な規範を示す一方で、実際の運用においては比較的穏やかな目で対応した。木村は、乗組員に異国の地での楽しい思い出を作らせ、乗組員の気持ちをひとつに纏め、円満な人間関係を築いておこうと心がけた。念頭には、復路航海への配慮が常にあった。