6.サンフランシスコにて-5

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

6.サンフランシスコにて-5

サンフランシスコのメア・アイランド(太平洋往路航海で破損した咸臨丸を修理した海軍工廠跡地)には、
『若い日本人が、メア・アイランド滞在中に宿舎から抜け出て姿を消した。彼は現地に住むスコットランド人技師デビィット。ワイトによって保護され、機関室の屋根裏に匿われ、咸臨丸が立ち去るまでサンドウィッチの差し入れを受けていたが、その後エスケープして行方不明になった』
という話が残っている。(2005年10月時点)
自由と好運を求めて、アメリカ人社会の中へ逃れていったのだろう。

咸臨丸は、サンフランシスコ停泊中に一般市民やアメリカ海軍から熱烈な歓迎を受けた。
軍艦奉行木村摂津守の従者となってアメリカの土を踏むことができた福沢諭吉は、英学の習得とアメリカの近代文明を肌で感じ取ろうと、毎日精力的に動き回った。
提督の木村摂津守も公式行事を次々とこなす一方で、福沢の目的に配慮して、福沢の行動範囲を緩やかに認めた。
「先生、今日は私と一緒に」
「今日は、先生お一人でどうぞ」
福沢は、その配慮に応え、目や耳などすべての五感を働かし、持ち前の好奇心を活かして、サンフランシスコの街中を歩き回り、見て回り、聞いて回った。
二頭立ての馬車を見て驚き、床に敷き詰められた絨毯の上を靴のまま歩くことにたまげ、三、四月の温かな時季にシャンパンのグラスの中に浮く氷を見てびっくりした。
毎日が驚愕の連続だった。
福沢諭吉は、後年、その著書『福翁自伝』のなかで、サンフランシスコ滞在中の様子を次のように記している。
『サアどうもあっちの人の歓迎というものは、ソレはソレは実に至れり尽くせり、この上のしようがないというほどの歓迎。アメリカ人の身になってみれば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たという訳であるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じことをすると同様、乃公(おれ)がその端緒を開いたと言わぬばかりの心境であったに違いない。
ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬようにとばかり、サンフランシスコに上陸するや否や、馬車をもって迎に来て、取り敢えず市中のホテルに休息という。そのホテルには、役人か何かは知りませぬが、市中の重立った人が雲霞のごとく出掛けてきた。