「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
5.咸臨丸、サンフランシスコに到る-2
くだんのバッテーラ事件が起きたとき、勝のふてくされた態度に困惑している水主たちの姿を見た学識豊かな福沢諭吉が、勝麟太郎に向かい義憤に駆られてたしなめた。
「艦長が、自分の船を見捨てるようなことがありますか」
福沢諭吉は、百助(ひゃくすけ)という儒学者を父に持ち、自身も大阪で蘭学者・緒方洪庵の適塾に学び、最年少二十二歳で適塾の塾頭となり、藩命により江戸に出て中津藩江戸屋敷の中で蘭学塾を開き、その講師となって多くの塾生を指導してきた博学多識の俊秀だった。
こういう福沢のバック・グラウンドを知らない勝が、血相を変えて福沢の顔を睨みつけ、喚き返した。
「うるせい。下僕はすっこんでいろ」
勝麟太郎という人物の性向は、相手の立場が勝っていると見ると懐柔策で臨み、劣っていると見ると『べらんめえ』調で一喝することによって自分を優位に立たせ、相手を屈服させる、つまり恫喝という手段を使う術(すべ)に長けていた。
このとき勝は、福沢を取るに足らない単なる木村の小者とみたが、その小者が将来の福沢諭吉であって、時代が下って明治となった後、わが国の先駆的な思想家、啓蒙家となり、日本の教育、言論、出版、政治、経済、外交に重大な影響を与え、あらゆる分野で日本を牽引する俊秀な人材を数多く輩出し、更には、東京学士会(現在の日本学士院)の初代会長を務めるなど、常に身をもって日本国の近代化を先導し、日本の歴史に偉大な足跡を残す大人物になるとは、夢にも思わなかった。
権威を嫌い、自由に憧れていた若き福沢諭吉は、『なんだ、こいつは』という思いをもって勝を見つめ、それが、咸臨丸の往路航海中に、恩人である温厚な木村摂津守に八つ当たりをして、手古ずらせぬいた勝麟太郎への深い憎しみとなり、その憎しみを消すことは生涯決してしなかった。
勝は、木村と違い、福沢諭吉という希代の傑物を見誤った。
咸臨丸に関する古典的名著である『幕末軍艦咸臨丸』の著者文倉平次郎氏(1868~1945)は、その著作の中で勝麟太郎を次のように評している。
『勝の性行を忌憚なくいえば、細心で剛毅をてらい、名誉心に焦(こ)がれ、反対者を威嚇又は懐柔する手腕を有し、筆に口に自己を宣伝するの癖がある。だから自分よりも七歳も若年で而も文官である木村摂津守が提督として尊敬されているのが不満であったかも知れない。又、長崎海軍伝習所時代の士官の中に彼と内心融和せぬものもあったためか勝は許(ばか)り居った。(中略)木村将官が幸いに温厚の人格者であったから論争も表面化されずに済んだ。一面から見ればこれも勝の才智が勝自身を反省せしめたのかも知れない』
また、元東京商船大学教授で遠洋航海帆船『日本丸(にっぽんまる)』(総トン数・二千二百七十八トン)の船長であった、『咸臨丸、大海をゆく』『咸臨丸還る』を著わした橋本進氏(1928~)は次のように述べている。
『勝は一匹狼であったと思う。勝は咸臨丸で自分の欠点―自己中心の身の処し方と閉鎖社会での集団生活の不適格性―を知ってからは、集団の外に自分を位置させるようになった。そしてこのことが、アメリカ滞在中に得た最先端の知識と相俟って、日本という国を冷静に見つめることができるようになり、独自の生き方を貫いたのではあるまいか』