「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
5.咸臨丸、サンフランシスコに到る-1
こうして、安政七年二月二十六日、咸臨丸とその乗組員は、さまざまな教訓、訓練、出来事を経験してサンフランシスコ湾に到着した。
木村摂津守、勝麟太郎、各士官、ジョン万次郎、福沢諭吉および長尾幸作、斉藤留蔵など摂津守の従者、塩飽・長崎の水主たち日本人総勢九十四名の乗組員は、ブルック大尉以下十一名のアメリカ人船員の支援を受けながら、まさに前代未聞の大事業をやり遂げた。
彼らは、厳寒期の大暴風雨と戦いながら、出航前に立てた航海計画通り、厳冬の太平洋を横断し、自分たちの船を無事に目的地アメリカ・サンフランシスコに到達させた。
こうして、咸臨丸は、日本初のパシフィック・オーシャンの往路航海を成し遂げた。
木村摂津守は、性格がおだやかで、終生、人を中傷することをしなかったが、往路の海の上での艦長勝麟太郎の言動には本当に困惑したようで、晩年に至り、勝海舟が七十七歳で没した後、人に問われて往事を追懐して次のように語っている。
「勝さんがどうしてもアメリカに行きたいというから、私がそのように取り計らったのに、幕府が勝の身分を上げてくれなかったことが始終不平で、大変なカンシャクですから、いつも周りの人間に八つ当たりをしていました。
勝さんは始終部屋に引きこもっていたので、相談のしようがなかった。やむなく、私が勝の部屋に行って相談事をしようとすると、
「どうぞご勝手に」とか、
「俺は反対だ」
としか言わず、ふて腐った態度を取るばかりで、ホントに困りました。
さらに、私だけではなく、日本人士官や水主たちも、勝さんには、ほとほと手を焼かされ、ホントに困りました。
ある時は、大洋の真ん中で、突然部屋から出てきて癇癪を起こし、水夫に向かって、
「バッテーラ(ボート)を卸せ。俺は日本に帰る」
と、訳のわからないことを喚き出す始末でした。
福沢先生も言っていました。
『勝が始終部屋にこもって出てこなかったのは、ただ船に酔っていたというだけでなく、身分についての不平不満がそうさせたのでしょう。いつも苛々して、云うこと為すことが支離滅裂でした』
私もそのように思いました。勝さんは陸(おか)の上ではいろいろな仕事を残しましたが、海の上では、どうにもイケマセンでした。理性を失い、普段の勝さんとは到底思えませんでした。
船室で起き上がっても、船酔いで体がふらふらして定まらず、部屋のあちこちにぶつかっていました。その度に癇癪を起こし、自分の従者に当たり散らしているので、見ている私も、黙って耐えている従者がホントに気の毒でした」
続けて木村芥舟が、しみじみとした口調で述べたという。
「やはり勝さんは、自信に溢れた陸の上での颯爽とした姿が似合う人でした。
ともあれ、その後の勝さんの仕事ぶりをみれば、あのとき、望み通りにアメリカへ渡り彼国(かのくに)を直(じか)に見ることができたことは本当に良かったと思います。勝さんが見たアメリカの生の姿が、新しい日本の基礎を築くための大きな智恵の基になったのでしょうから。
それにしても、人の心を見抜く達人のあの勝さんが、士官たち周囲の気持ちをまったく察せられなかったということは、咸臨丸の上では気力も体力もまったく疲弊していたというほかありません」