4.咸臨丸の往路航海-15

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

 

4.咸臨丸の往路航海-15

直参と陪臣の身分の差による扱われ方の違いは他にも例があった。
木村摂津守の従者の名目で咸臨丸に乗船していた佐賀藩士秀島藤之助(とうのすけ)についてである。
秀島藤之助は佐賀藩から海軍伝習所に入った総勢四十八名の中で最優秀の成績を取った俊秀であった。
藩主の鍋島直正が非常に喜び、
「あっぱれ。あっぱれ」
と特別に褒美を与えた程の佐賀藩を代表する人材だった。
伝習所には開設の時から閉鎖まで足掛け五年在籍し、熱心に勉学、実習に励んだ。その成果が現れ、咸臨丸に乗船した士官の誰にも負けないほどの操船伎倆を身につけた。
しかし秀島は、徳川幕府の直参ではなく、佐賀藩に仕える陪臣であったため、直参と陪臣との間の厳しい身分差別に阻まれて、往路の航海では幕府の軍艦咸臨丸の操船に指一本触れさせてもらえなかった。

ところが、結論を先にいえば、復路の航海では、当直割が一変したのだ。
木村摂津守が、能力主義を採用した。
往路航海において、ブルック大尉から施された船乗りの心構えを、復路の航海で忠実に体現した。
当直割に小野友五郎と根津欽次郎との新しいコンビを誕生させたのである。
木村は往路航海での当直割の失敗を踏まえて、名目だけの、責任の所在が曖昧だった当直体制を徹底的に排し、責任が明確となる当直体制へと組み替えた。
ブルック大尉が評価した小野友五郎の能力と実績を認め、小野を当直体制に組み込み、責任者に据えた。
これは、当時の厳しい身分制度の下に置いては、考
えられない画期的な出来事だった。木村摂津守の大英
断だった。
根津欽次郎は、小普請組柴田能登守の組に属する小笠原弥八郎の配下であったから、れっきとした幕臣であった。その幕臣の上に陪臣の小野友五郎が据えられ、責任者となった。
こうして、サンフランシスコから日本への復路航海の当直割は次のように組み替えられた。
ブルック大尉の意見を素直に採りいれた木村の柔軟な思考回路と当時の身分制度の枠を越えてまで、航海の安全を守ろうとした木村の決断だった。
一組 佐々倉桐太郎(運用方)
赤松大三郎 (測量方)
二組 浜口興右衛門(運用方)
松岡盤吉  (測量方)
三組 鈴藤勇次郎 (運用方)
伴鉄太郎  (測量方)
四組 小野友五郎 (測量方)
根津欽次郎 (運用方)
木村摂津守が往路航海時と変更しなかったのは、佐々倉と赤松の組合せだけで、あとは総入れ替えにして、能力・実力本位の当直体制を整えた。
また、木村摂津守は、復路の航海においては、佐賀藩の陪臣秀島藤之助を厚く遇して、操船作業に積極的に参加させた。