咸臨丸の往路航海-14

Pocket

 

「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-14

福沢は、思った。
『この方は、他の幕府役人とはまったく違う。封建身分制度とは関係なく生きている』
福沢諭吉は、木村摂津守の飾らない態度に深い尊敬の念と強い親近感を覚えた。
『門閥制度は親の敵』として心を閉ざして生きてきた福沢が、生まれて初めて心を開いた、身内の人間以外への素直な感情だった。
福沢諭吉は、心を込めて頭をさげた。
「木村さま、ありがとうございます」
ところで、ブルック大尉が能力ありと判断して、木村摂津守に重要なポストへの登用を促した人材の一人に笠間藩出身の小野友五郎がいた。
江戸築地にある軍艦操練所に入所できる者は、原則として幕府の直参に限られていたが、天才的数学者として評価の高かった小野友五郎は、唯一の例外として陪臣ながら操練所への入所が認められ、軍艦操練所教授方の職に就いた。
しかし、もとは笠間藩士で陪臣の身分であったため、いかに優秀でも、陪臣の身分で直参の上に立つことは認められることではなかった。そのため、優秀で、かつ、最年長(四十三歳)であったが、浦賀奉行所に仕える幕臣の浜口興右衛門(三十歳)の下でシフトを組まされた。

咸臨丸に乗り組んだ日本人船員のうち、船の位置を計算するための天測ができるのは、中浜万次郎と小野友五郎の二人きりであった。
例えば、二月十七日(旧暦・正月二十六日)のブルック大尉の日記
『真夜中ごろに風が衰え、船は午後五時まで進めなかった。正確な天測をする。万次郎、友五郎と一緒に天体の高度を測った。私は万次郎の六分儀を調節してやった』
二月二十五日、ブルック大尉の日記
『友五郎は優秀な航海士である。彼にスマーの方式を教えている』とある。
しかし、ブルック大尉がいかにその伎倆を高く評価した航海士の小野友五郎であっても、陪臣の身分であるが故に、往路の航海では当直士官の責任者になれなかった。