4.咸臨丸の往路航海-13

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-13

木村は、平伏するような仕草で静かに頭(こうべ)を垂れてから、福沢に答えた。
「畏れ多いことです」
木村は敢えて将軍家のことを口にせず、話の向きを変えて説明した。
それは、木村が十三才の時に浜御殿奉行見習を命ぜられ、将軍家慶に初めて拝謁したときの話であった。
後に至り、木村芥舟が、その著『木村芥舟翁履歴略記』の中で、将軍家に拝謁したとき、家慶が幼い勘助をいかに慈しまれたかを書き記している。
提督の木村は、それと同じことを福沢に話して聞かせた。
『愼廟(十二代将軍家慶)に始めて拝謁し奉りしは、天保十三年(1842)三月二十一日、浜園御遊の時にして、近く余を召しかしこき御言葉を懸けさせ玉い、頭を撫で顎を握らせたまいなどして深く御いつくしみを蒙り、またお茶屋にて余が父子に御手づからの御酌にて酒を給えり、くさぐさの賜ありしは御遊びの度毎にて、実例の如くなりて身に余る恩栄は今猶目前に在るが如し』
木村は、この話を福沢に聞かせた後、感慨を込めて言い添えた。
「おやさしいお方であらせられた」
木村の顔に、将軍家慶への深い愛情が滲み出ていた。
福沢諭吉は、木村のこの話の展開のさせ方に心底感服した。
将軍家のことを直接口にすることは畏れ多いとしながらも、福沢の質問に真摯に答えようとする、木村の誠実な態度に頭が下がった。
福沢は、最上級の高潔な徳川武士の真(まこと)の姿を目の当たりに見た思いがした。
木村が示すこの誠実で謙虚な姿勢は、誰に対しても、相手の身分を問わず平等であり、変ることはなかった。
福沢は、木村摂津守という人間が持ち合わす人格と謙譲さは、ひとえに、幼い頃から木村が勤しんだ講学の賜物であろうと推量した。
福沢の物差しからすれば、上級の武士であれ、下級の武士であれ、学問のない人間はすべからく無教養な不躾者であった。
それは、単なる知識の多寡の問題ではなく、人間としての素養、人格淘汰の次元の問題であった。
福沢は、木村摂津守の横に座りながら、これこそが学問の真の目的であり、在り様ではないかと深く胸に刻んだ。
かわって、木村が福沢に尋ねた。
「先生、これからの日本はどのようになると思いますか。そのなかで、先生は何を為さるおつもりですか」
福沢が、控えめな口調で答えた。
「私は、近いうちに、時代が変革すると思っています」
「私は、それに備えて、米国や欧州を自分の目直(じか)に見ておきたいのです」
「西洋の状況をつまびらかに見て、人びとを啓蒙する本を書きたいと思っています」
静かな話しぶりであったが、福沢の熱い想いが溢れていた。
木村は、福沢が内に秘めている情熱に圧倒された。
船の揺れに合わせて、隣り合って座る木村と福沢の肩が自然に触れ合った。
しかし、木村はそういうことを一切気にせず、正面の一点を見つめたまま言った。
「先生。ぜひ、本を書いてください。私も、できる限りの力添えをします」
木村の心と福沢の心が触れ合った瞬間だった。
その時以来、木村摂津守は福沢諭吉と二人きりのときは、四歳年下の福沢を「先生」と敬称して話しかけてくる。福沢に、身分の高低をまったく感じさせなかった。