4.咸臨丸の往路航海-12

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-12

福沢諭吉が桂川甫周の紹介状を携えて初めて軍艦奉行木村摂津守の屋敷を訪れた時、福沢は幕臣木村摂津守喜毅のことを十分には知らなかった。
ただ、自ら志願して木村の従者として咸臨丸に乗船、英学に触れるためにアメリカを訪問する機会を掴んだと思っただけだった。
木村摂津守に対する当初の認識は、『所詮、門閥制度の内側にいる人間』というものでしかなかった。
ところが、咸臨丸が出港し、船室の中で木村の身辺の世話をするうち、『この武士は大変な人物である』と思うようになった。
その最初のきっかけは、咸臨丸が浦賀を出港してから暫らくのときだった。
福沢諭吉は、いつもの通り、主人である木村摂津守の身の周りの世話を済ませ、提督室の外に出ようとして、部屋のドアに手をかけた。
そのとき、
「先生」
背後から、木村の声がした。
福沢は、自分が呼ばれたとは思わずに、そのまま半身を船室の外に出しかけた。
木村が大きな声で、ふたたび声をかけた。
「福沢先生」
そこで福沢は、はじめて、自分が呼ばれていることに気がついた。
福沢諭吉は、主人に当たる木村摂津守から「先生」と声をかけられ、呼ばれるとは、夢にも思っていなかった。
福沢は、思わず振り返り、木村の目を見つめた。
木村が立ち上がり、揺れる船室の壁を手で伝いながら福沢に近づいてきた。
木村が、船酔いで憔悴した顔に笑みを浮かべ、福沢の耳の近くで言った。
「福沢先生、しばらく話をしませんか」
福沢は、「先生」と呼ばれたことに感激すると同時に、従者である福沢を「先生」と呼んで憚らない木村の人間性に大きな関心を抱いた。
それまで木村摂津守に対して抱いていた感情は、『木村は福沢が嫌悪している門閥制度の中にいる、何の変哲もない幕府の役人だろう』という程度のものだった。
福沢は、幕府役人の従者になって、アメリカへ渡る機会を得たというように、心の底で割り切って提督の木村摂津守に接してきていた。
ところが、木村が福沢の予想にない言動に出た。