4.咸臨丸の往路航海-11

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-11

ブルック大尉はそのような艦内の不安を払拭しようと、『能力のある者を航海の当直に起用するように』と、艦長の勝に進言しようとした。
しかし、病気と船酔いを理由にして従者と二人きりになって船室から出て来ず、部屋に籠もりきりの勝麟太郎では、まったく事態解決の相談相手にならなかった。
その上、咸臨丸に乗船してからの艦長の勝麟太郎は、陸上での勝とは思えないようなわがままな言動が多くなり、ジョン万次郎を始めとする日本人乗組員のひんしゅくを買い、誰もが勝を相手にしなくなっていた。

江戸城の廊下で、「日本人の力だけでパシフィック・オーシャンを渡ってみせる」と木村摂津守に胸を張ってみせた勝麟太郎の姿は、もはやどこにもなかった。
そこでブルック大尉は、自分の考えを万次郎に説明し、提督の木村摂津守に伝えるよう依頼した。
アメリカで人間平等の教育を受けた万次郎は、ブルック大尉の考えを当然のこととして受けとめ、同時に、このことは木村の従者の福沢諭吉にも聞かせておくべきだと判断した。
なぜなら、万次郎は以前、福沢から、『門閥制度は親の敵で御座る』という福沢の強い思いを聞いていたからだった。
ブルック大尉の依頼を受けた万次郎は、福沢を同席させて、木村にアメリカという国の成り立ちと国家の仕組み、そしてアメリカ人が抱いている人間平等の価値観を丁寧に説いた。
万次郎は、かつて、同僚のアメリカ人船員から選挙で副船長と捕鯨の主役である銛打ちに選ばれた時のことを思い出しながら、ブルック大尉の心意を分かりやすい言葉に置き換えて説明した。
「船の上では、身分や家柄はいっさい関係ありません。あるのは、船乗りとしての実力と実績だけです」
傍らで万次郎の話を聞いていた福沢諭吉は、万次郎が自分の抱いている固い信念を理解してくれたように思えて嬉しかった。
ブルック大尉からの伝言を万次郎から伝え聞いた木村摂津守は、ひと言、答えた。
「ブルック氏の考えはわかりました」
万次郎が退出した後の木村の部屋の中で、福沢諭吉は、木村の耳に届くような声で、
「ブルック大尉の言うことは至極尤もなことだ」
と、自分の意見を遠慮気味に呟いた。
これを耳にした木村は、怒りもせず、話しをはぐらかすこともせず、福沢を正面から見据えて答えた。
「先生、私に、暫く、時間をください」
この率直ともいえる言葉を聞いて、福沢は思い返した。