4.咸臨丸の往路航海-10

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-10

この一件を経て、日本人との気持ちの距離が縮まったと判断したブルック大尉は、木村摂津守に提督としての気構えと船乗りの心構えを徹底的に教え始めた。
それは、ブルック大尉が木村摂津守と初めて会った時から、木村の率直で気さくな人柄を非常に好意的に受け止めていたからだった。
ブルック大尉は、木村の人物像について書き記している。
『提督は、もとより船乗りではない。彼は将軍の江戸の町奉行と同じ身分である。極めてもの静かな人物で、豊かな服装をし、明朗な顔つきをしている』
ブルック大尉は、木村に、海で生きるための生活習慣、即ち、船乗りとしての教育を施し、復路航海の指揮を咸臨丸提督としてそつなく取らせ、無事に日本に帰国できるようにしてやりたいと考えた。
ブルック大尉が、提督の木村摂津守を指導しておく必要があると考えた根拠は次の通りだった。

浦賀を出港する前に軍艦奉行木村摂津守が決めた往路航海の士官の当直割は、幕藩体制をそのまま持ち込み、能力よりも家柄と身分を重視した艦内の秩序維持最優先のシフトであって、あたかも、その関係さえ維持しておけばすべての咸臨丸の操船業務が問題なく機能すると考えているような組み合わせだった。
即ち、
一組 佐々倉桐太郎(運用方)
赤松大三郎 (測量方)
二組 鈴藤勇次郎 (運用方)
松岡盤吉  (測量方)
三組 浜口興右衛門(運用方)
小野友五郎 (測量方)
四組 伴鉄太郎  (測量方)
根津欽次郎 (運用方)
のチームであり、これは運用方と測量方の士官を組み合わせた当直割で、しかも、各組の責任者は直参の佐々倉、鈴藤、浜口、伴、であった。
ところが、太平洋の荒波に遭うや否や、多くの日本人士官が船酔いで倒れ、木村が立てた形ばかりの当直割はまったく機能しなかった。
このため、咸臨丸の操船は、ブルック大尉とその部下のアメリカ人船員、および中浜万次郎に委ねざるを得ない事態に陥った。日本人士官の中では、船酔いに強かった浜口興右衛門、小野友五郎らが手助けできる程度の状態だった。
こういう事態に追い込まれた日本人乗組員は、心身共に大いに疲労、狼狽し、艦内の不撓の規律も失った。
木村摂津守、勝麟太郎、そして乗組み士官たちは、これからの航海に不安を覚えた。
乗組員の中から、
「もう、アメリカへ行くのは嫌だ」
「このまま、日本に帰りたい」
と、言い出す者も出た。