4.咸臨丸の往路航海-8

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-8

日本人乗組員のほとんどが、三度の食事も食べられず、胃の中が空になっても吐き続けた。艦内は、打ちこんできた海水と乗員の汚物が混じり合い、異臭が漂った。
冬場の外洋は、日本人乗組員が自信の根拠にしていた日本近海の航行の経験だけでは、とても太刀打ちできるような生やさしい海ではなかった。
船酔いせずに、正常に動ける日本人船員は、わずか数人だけだった。
一方、ブルック大尉やアメリカ人船員は平然と船を操り、遠洋航海を何度も経験した船乗りとしての実力と実績を、日本人船員に十二分に見せつけた。
心ならずも主役交代を余儀なくされた日本人士官たちは、事あるごとに感情的になり、ブルック大尉らアメリカ人に食ってかかった。
間に入って通訳する万次郎にも当たり散らし、脅迫した。
「日本人のくせに、異人の味方をするのか。マストに吊すぞ」
万次郎は、命の危険を感じるときもあった。
さすがのブルック大尉も、万次郎の身の安全を心配し、さらには、日本人の振る舞いに嫌気がさし、癇癪をおこして、万次郎に尋ねた。
「もし私が部下を当直から外して、操船から手を引いてしまったら、提督の木村はこの船をどうするだろう」
万次郎が答えた。
「船は沈没してしまうでしょう。この嵐の中を日本人だけで乗りきることができる筈がありません」
続けて、万次郎が言った。
「そんなことで死んでしまうのは、私は非常に悔しい」
ブルック大尉の内心の怒りと心配を知ったジョン万次郎は、何とか最悪の事態を避けようと、持ち前の聡明さと船乗りとしての実力を発揮して、アメリカ人と日本人の間に積極的に分け入って、相互理解が出来るよう懸命に努力をした。