「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
4.咸臨丸の往路航海-7
咸臨丸の往路航行は、旧暦二月二十六日サンフランシスコ湾に日本初の日の丸旗を翻すまでの三十七日間、ほとんど毎日、暴風雨に悩まされた。太陽を拝めたのは、わずか数日であった。
六百二十五トンの小さな軍艦が、北の大洋の荒波に木の葉のように揉みに揉まれた。
福沢諭吉は、難航を続ける咸臨丸の中で、アメリカには自由・平等の思想があること、国民には等しく教育の機会があること、それらの制度がアメリカという国の発展の基盤になっていることを知った。
咸臨丸が浦賀港を出港する前から抱えていたもう一つの難問は、日本人士官とブルック大尉との意識のギャップ、いわば相互理解に齟齬が生じていたことだった。
このことが、日本人とアメリカ人との意思を仲介するするジョン万次郎を終始苦しめた。
最大の原因は、咸臨丸が出港する前に、勝麟太郎がブルック大尉の真意を日本人士官に正確に伝えず、話を曖昧にして言い抜けたことにあった。
ブルック大尉は自ら志願して乗組み、日本人初の太平洋横断の成功を支援しようした。
ところが、日本人士官たちは、勝麟太郎から、
「帰国の機会を待っている異人たちをついでに咸臨丸に便乗させてやるのだ」
と、聞かされていた。
ブルック大尉は、日本人を支援するという真意を忠実に実行し、咸臨丸の出港準備のときからいろいろとアドバイスをしたが、日本人士官は余計な口出しだとして、まったく聞く耳を持たなかった。
しかし、いざ実際に、荒れ狂う北太平洋に乗り出してみると、咸臨丸船内の情況は大きく変わった。
提督の木村摂津守、艦長の勝麟太郎を始め日本人乗組員の多くが船酔いで倒れ、寝込んでしまった。
特に、勝は乗船前に罹った重い流行風邪(はやりかぜ)で身動きができなかった。しかも、その病を他の乗組員に罹患させ、日本人船員の士気を大いに喪失させた。