4.咸臨丸の往路航海-5

Pocket

「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-5

提督の木村摂津守は、見たまま、感じたままを正直に『日記』に書き記した。
『亜人はこの日に至っても一人も疲労する者なく、一日特定の三飯心よく食す。ここによってこれを見れば、米夷の海上に熟練せること、実に驚くべし』
さらに木村は、福沢諭吉、斉藤留蔵ら従者五人と医師の牧山修卿朗、木村宋俊の計八人と一緒の船室にいたとき、福沢諭吉だけが早くに船酔いから脱して、一人平然としていたことにも感心した。
福沢は、二六時中、主人の木村を介抱し、飲食衣服の世話をして、木村摂津守の従者として熱心に働いた。
福沢諭吉は、このときの様子を、後日、『福翁自伝』に次ように記した。
『私は艦長(木村摂津守)の家来であるから、艦長のために始終左右の用を弁じていた。艦長は船艫(とも)(船尾)の方の部屋にいるので、ある日、朝起きて、いつもの通り用を弁じましょうと思って艫の部屋へ行った。ところが、その部屋に弗(ドル)(メキシコ銀貨)が何百枚か何千枚か知れぬほど散乱している。どうしたのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押し入れの中に積み上げてあった弗、定めし錠もおろしてあったに違いないが、激しい船の動揺で、弗の袋が戸を押し破って外に散乱したものと見える。これは大変なことと思って、すぐに引き返して舳(船首)の方にいる公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大いに驚き、その場所に駈けつけ、私も加勢してその弗を拾い集めて、袋に入れて元の通り戸棚に入れた』
累代の武門の木村摂津守は、咸臨丸がアメリカをめざして出てゆくことは、戦国の武士が出陣するのと同じことだと心得、代々相続して金目(かねめ)のものすべてを売り払い、つくった三千両をメキシコ銀貨に替えて、密かに自分の船室に積み込んだ。木村は、出発に当ってお上である幕府から出る経費のみでは十分ではないと思考し、同行の人たちや訪問先のアメリカで世話になるであろう人びとに差し上げるものを含めて、私財を尽くして諸々の費用に当てようとした。
木村摂津守は、そうすることが、徳川家の恩顧に報いることであり、木村家が引き継いできた徳川武士の面目であることを心に刻んでいた。
従者の福沢諭吉は、船室の床に散乱する大量のメキシコ銀貨を拾い集めながら、全ての私財を投じて出陣にそなえた主人の覚悟を察して、木村摂津守に古来からの真(まこと)の武士の姿を見た思いがした。
そして、二歳のときに死に別れた父豊前中津奥平藩の士族福沢百助(ひゃくすけ)の姿を木村に重ねた。