「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
4.咸臨丸の往路航海-4
二十三日に、木村摂津守が『日記』に書き記している。
『暁より霰降り出し、風変わらんとして波高く動揺甚だし、端船をつりたる綱切れたり、よってこれを船中に取り入れたり。第六時に至りて猛風いよいよ甚だしく、前のマストの帆を吹き裂けらる。船夫はみな疲労して、倒臥者過半なり』
同日、ブルック大尉も記している。
『万次郎はほとんど一晩中起きていた。彼はこの航海を楽しんでいる。昔を思い出しているようだ。しかし、他の日本人が無能なので、帆を十分にあげることができない。
上官達はまったく無知である。多分悪天候の経験が全然ないのだろう。舵手は風を見て舵をとることができない。
日没に天候がひどい荒れ模様になった。日本人は帆をたたむことができない。我々の部下をマストに登らせ、帆をたたませた』
さらに、出港してから十日目頃の正月二十七日から二十八日にかけての大型低気圧による大暴風の荒れようは凄まじいものだった。
木村は下痢に苦しんだ。
勝は出港前に患った風邪(一説には、インフルエンザ)による高熱で寝たきりだった。激しい船酔いにも苦しみ、まったく動くことができなかった。
士官を始め日本人乗組員の多くが船酔いでダウンした。
中浜万次郎だけは、捕鯨船に乗って三年間、地球を一周以上も航海し、航海士も勤まるほどの船乗りだったので、通訳の他にたびたびアメリカ人船員と共に当直にも立ち、天測も手伝ってブルック大尉を助けた。
このような情況からして、咸臨丸にブルック大尉などのアメリカ人船員と中浜万次郎が乗っていなければ、咸臨丸は浦賀出港わずか十日後には、荒れる北の太平洋に沈んでしまったに違いない。
このときが、咸臨丸の往路航海の最大のヤマ場であった。ブルック大尉の見事な操船と、適確な気象判断によって危機を脱した。
軍艦奉行木村摂津守が練りに練った、中浜万次郎の起用とブルック大尉以下十一名のアメリカ人船員の乗船という陣立てが、まさしく功を奏した。