4.咸臨丸の往路航海-1

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

4.咸臨丸の往路航海-1

安政七年(1860)正月元旦、木村摂津守は朝賀として明け方に登城した。衣服を大紋に着替え、献上の太刀の目録を携え、御礼席を廻り、一列に並んだ町奉行、勘定奉行たちへの挨拶を済ませ、お流れ頂戴(上様から御杯を賜る)の儀式を終えた。
その際、将軍家茂(いえもち)から紅裏の時服を一枚拝領し、それを肩に掛けて退いた。
これは、徳川将軍から木村摂津守への、先祖来の立派な奉公に対する真心の込もった思し召しのしるしであった。
同正月十一日、木村摂津守は幕府から、『使節の内万一病気等にて事故あるときは、代りて使節相勤むべし』との、緊急時における対応について指令を受けた。
そして、翌十二日、木村摂津守は、アメリカ国へ行くためのお暇のために登城し、白書院において上様からお言葉を賜り、黄金十枚と時服三枚を賜った。
家に帰ると、咸臨丸が出帆するというので、親戚、友人が集まり、別れの杯を交わした。
別れの杯は薄暮どきに終わった。その後、木村摂津守喜毅は築地の操練局に行き、ボートに乗って品川沖に停泊中の咸臨丸に乗り込んだ。夜も更けてすでに亥の刻(午後十時頃)になっていた。
翌十三日、咸臨丸を横浜に回航して、ここでアメリカ人船員の乗船を待ったが、彼らは直ぐには乗り込んでこなかった。日本人乗組員は、咸臨丸の甲板上で都合三日待たされた。
これには中日(なかび)が日曜日だったというアメリカ人にとっての宗教上の都合があったが、逸(はや)る気持ちの日本人船員はじりじりした思いで、アメリカへ乗せていってやるアメリカ人船員の乗船を待った。
ようやく、十五日になってブルック大尉以下が姿を現し、乗船を終えた。
同日、咸臨丸は浦賀に至り、三日間停泊して薪、水、食糧などの物資を積み込んだ。
こうして、旧暦安政七年(1860)正月十九日午後三時、幕府軍艦咸臨丸は、本格的な遠洋航海の実習と、アメリカ海軍の実地見聞と軍制調査という隠れた任務を担って、サンフランシスコをめざして三十七日間に及ぶ航海へ乗り出した。

(注)写真は、ブルック大尉です。