「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
3.咸臨丸乗船員の決定-15
軍艦奉行木村摂津守以下日本人総員九十四名、ブルック大尉以下アメリカ人十一名、総勢百五名。
その後、これら正式メンバーに、勝麟太郎が自分の従者として一人の若者を護衛艦に乗船させたが、その人物の氏名、年齢は不詳のままである。
『万延元年遣米使節史料集成』第七巻七十頁によると、『勝麟太郎義邦(従者)某』とある。
軍艦奉行木村摂津守は、中浜万次郎とブルック大尉という頼り甲斐のある人材、さらに熟達したアメリカ人船員を揃え、次に、アメリカへの往復航海のための資金の調達を幕府に掛け合った。
幕府は木村摂津守の要請に応じて、往路航海の準備費用と復路の海外の寄港先での石炭や食料などの補給、調達費用としておよそ七千六百両と洋銀八万枚を用意した。
しかしこの頃、幕府の財政は大いに逼迫していたので、勘定所の役人の間には、「巨額の幕府の金を使ってまで咸臨丸をアメリカへ派遣する必要があるのか」と、出金に疑念を抱く者が多かった。幕府軍艦咸臨丸による単独渡航の意義と目的を理解しようとする役人は少なかった。
このため、木村摂津守が併せて幕府に願い出た『士官たちの階級に応じた俸給、手当の増額』は毫も顧みられなかった。
勝麟太郎が、大いに憤慨した。
「頭の悪い俗吏どもだ。何もわかちゃぁいねえ」
こういう状況下において、木村摂津守は目的地に到着後の咸臨丸の修理などに使う金も必要だろうと考えて、自己名義で幕府から五百両を借り受けた。
それでも木村摂津守は、五百両では到底足らないだろうと判断した。なぜなら、万次郎からサンフランシスコの物価は非常に高いことを聞いていたからだ。
さらに、提督としての木村摂津守は、士官を始めとする乗組員が幕府に抱く身分や手当についての不平、不満を充分承知していたので、水夫、火焚も含めて彼らへの恩賞のためと彼国(かのくに)おける日本人としての責任ある行動を果たさせるための資金が必要になるだろうと心を砕いた。
そこで、木村摂津守は父木村喜彦の許しを得て、書画骨董、刀剣など木村家に代々伝わる家財、財宝のほとんどを売り払い、三千両を作った。現在価値に換算するとおよそ数億円の現金を一、二ヶ月のうちに作り、木村家として出来うる限りの軍資金を整えた。
なお、付言すると、咸臨丸渡米への直接的な資金援助を目的とはしていないが、静岡富士宮の名主であり、豪商でもあった池谷家八代目当主の池谷七郎平が、『安政五年に築地の軍艦操練所に五百両を献納した』との記録がある。
池谷家に伝わる記録をまとめた『あゆみ』(私家本)に、次の一行がある。
『安政五年幕府江戸芝新富銀座(『築地』をさす)ニ大小砲練習場ヲ設クルノ挙アリ御国恩冥賀トシテ金五百両ヲ献納ス』
このことから、幕府の財政が破綻に向かう一方で、商人の経済力が著しく伸張していたことがうかがえる。