3.咸臨丸乗船員の決定-13

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

3.咸臨丸乗船員の決定-13

ハリスの脅しに慄いた幕閣は、イギリスとフランスの艦隊が来襲してくる前に、一刻も早く、仮に天皇の勅許を得られなくても、アメリカと条約を締結すべしという情勢判断に傾いた。
しかし、新たに大老に就任した井伊掃部頭直弼は、意外にも、天皇の勅許を優先させるべきことを強く主張し、従来の幕閣の政治判断に反対した。
このように幕閣内で意見が激しく対立するなか、最終的には、アメリカの砲艦外交に屈する形で、井伊大老が腹を括った。
井伊掃部頭は、予てより傑物と高く評価し、外交交渉の全権を委ねていた開明派の岩瀬忠震に対して、『どうしてもハリスが納得しないときは、調印やむなし』との言質をそれとなく与えた。
井伊掃部頭の心意を察した岩瀬忠震は、『早期の調印こそ、アメリカの日本占領を回避するための唯一の解決策』と判断した。
外交官僚として辣腕を振るった岩瀬が調印を急いだ理由は、『万一、日米交渉が不調に終わった場合には、アメリカは戦略を変更して、アジアでの覇権を握るための前線基地として琉球を占領する戦術を取るだろう』という、確度の高い情報が岩瀬の耳に入っていたからだった。
先を見据えた岩瀬忠震は、日本本土がアメリカの侵略の視野に入ってくることを恐れ、何としても、これを回避すべきだと決意した。
安政五年六月十八日(1858)の深夜、条約調印を司る井上清直、岩瀬忠震は、密かに幕府軍艦・観光丸に乗船して神奈川沖に停泊しているアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、翌六月十九日、井伊掃部頭の幕閣内での表向きの主張に反する形で日米修好通商条約の締結に踏みきった。
条約は全部で十四ケ条からなり、内容は、『両国の親睦を図り、両国官吏を交換派遣すること、長崎と箱館のほかに神奈川、兵庫、新潟の諸港を開き、下田を鎖すこと、運上(関税)、通貨の交換価値に関すること』などであった。
そして最後の十四条に、『日本政府より使節を派遣してアメリカ・ワシントンに於いて批准書を交換する』という一項目があった。
こうして、日米修好通商条約の批准書を交換するために、日本からアメリカに使節団が送られることになった。
このような経緯によって、中浜万次郎は軍艦奉行木村摂津守に請われて、咸臨丸に乗船し、再度アメリカへ渡ることになった。