3.咸臨丸乗船員の決定-12

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

3.咸臨丸乗船員の決定-12

下田駐在の初代アメリカ総領事に任命されたタウンゼント・ハリスは、安政三年(1856)六月、下田に来航し、玉泉寺に総領事館を開いた。
着任したハリスは、早速、通商条約の締結実現に向かって精力的に動いた。
これに対する、日本側の姿勢は終始及び腰だった。
幕府は、事前に中浜万次郎の意見を聞いてはいたものの、実際のこととなると、易々とは対応できなかった。幕府の交渉担当者はハリスの強硬な態度によって、次第に追い詰められ、最終的には、アメリカとの自由通商やむなしという雰囲気が幕府内に醸成された。
こうして、老中堀田正睦は条約調印委員の下田奉行・井上信濃守清直と海防掛目付・岩瀬肥後守忠震に全権を託して、条約の交渉を開始させた。堀田老中が目論んだ交渉の段取りは、条約内容について日米双方で実質合意に達した後に、孝明天皇の勅許を得て世論を納得させてから、通商条約締結に持ち込むというものだった。
そこで、老中堀田正睦は自ら岩瀬忠震を伴って京都へ赴き、条約の内容を明らかにして勅許を願い出たが、中山忠能、岩倉具視ら攘夷派の少壮公家の猛烈な反対にあった。
さらに、孝明天皇自身、「和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば神国日本を汚すことにはならないが、対等な立場で異国と通商条約を締結すれは神国日本の秩序、価値体系に大きな変化をもたらす」として、頑なに勅許を拒否した。
老中堀田正睦が目論んだ勅許獲得は失敗に終わり、堀田老中は辞職に追い込まれた。
日本側のもたつきぶりに苛立ったハリスは、早期の締結要求を更に強め、容赦のない砲艦外交を展開して、幕府を威嚇した。
ハリスは、
「清国とのアヘン戦争にかたをつけたイギリスやフランスが相次いで大艦隊を引き連れ日本に侵略してくるぞ。それを防ぐ唯一の手段は日本と友好な関係にあるアメリカと、アヘンの持ち込み禁止条項を含めた通商条約を早く結ぶことだ」
と、脅し文句を並べ立てた。