「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
3.咸臨丸乗船員の決定-11
和暦が安政元年(1854)に変わる嘉永七年一月、ペリーは香港で徳川家慶の死を知ると、予告した一年後を待たずに、急遽同月十六日に日本に再来航した。
今度は、軍艦七隻を率いてきた。前年六月には四隻だった黒船を七隻と増強し、徳川幕府への圧力を一段と強める姿勢を取った。新たな大型大砲を装備してきて、武力の差を歴然と見せつけ、砲艦外交をさらに強めた。
再度江戸湾深くに侵入して圧力をかけるペリーに対して、浦賀奉行は浦賀沖に出るよう要求したが、射程距離の長い大砲百二十八門を搭載したペリー艦隊はこれを完全に無視した。
やむなく幕府は、妥協案として、江戸から離れた浦賀か鎌倉での交渉を提案したが、ペリー提督は受け容れず、江戸に近い場所での交渉を要求した。
苦渋した幕府は、神奈川宿の対岸にある横浜村で外交交渉に応じることで決着を図った。
当時の横浜村は、東海道神奈川宿から離れた場所の半農半漁の寒村だったが、ペリーは横浜の地が江戸に近く、錨泊水域も広く安全であることから、横浜村を交渉地とすることに同意した。
また、ペリー艦隊から見れば、この位置は浦賀沖と同様に、幕府の陸上砲台からの射程距離外で、逆に、艦隊からは陸上砲台は艦砲射撃の射程内にあった。
このとき徳川幕府がペリーに回答した条約締結の条件は、アメリカ大統領の親書のうち、「石炭、食料の供給と難破した船の乗組員の救助」は認めるが、「交易は、人道上の目的とは関係ないので、あくまでも拒否する」というものだった。
ペリー提督は、和親条約の早期締結を最優先事項と判断し、日本の回答を条件付きで受け容れた。条件とは、条約内にアメリカから領事を派遣するという一項目を入れ、日本を再交渉の場に引き出すという狙いを残したものだった。
こうして、嘉永七年(1854)三月三日、日米和親条約(神奈川条約)が調印された。
徳川幕府は、開国に踏みきり、下田と箱館(函館)の二港を開いた。
寛永十六年(1639)から二百十五年続いてきた日本の鎖国の時代は終わった。