3.咸臨丸乗船員の決定-9

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

3.咸臨丸乗船員の決定-9
(右の写真はジョン万次郎です)

ところが、現実に、今まで見たこともない大きなアメリカの黒船が四隻も来航して江戸と目と鼻の先に停泊し、各艦から十七、八人の水兵を乗せた測量挺を一艘ずつ下し、江戸湾深くに侵入し、海の深さを測量し、海岸の防備体制を偵察するなどの示威行為を繰り返した。さらには、炸裂弾を発射できる最新式のベクサン砲十六門を含む六十三門の大砲を備えた四隻の軍艦から陸地に向かって八十数発の空砲を撃ち続け、江戸湾に轟音を鳴り響かせるなど、アメリカと日本の国力と軍事力の圧倒的な差をまざまざとみせつけた。
それまでペリーの来航を余り深刻に考えていなかった幕府役人は大いに怯え、周章狼狽した。
このように、対日外交手段として日本を武力で威嚇する砲艦外交を展開したペリー提督は、浦賀の南隣の久里浜において、幕府全権委員の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄、井戸石見守弘道らの幕府役人に対して、ミラード・フィルモア大統領(十三代)の親書を強引に突きつけるように手渡し、日本の速やかな開国を強く求めた。
幕府は返答に窮し、将軍家慶が病気であって直ぐには回答できないことを理由にして、返答まで一年の猶予を求めた。
ペリー提督は、何の回答も出せない幕府の弱腰外交を見るや、強圧的な物言いで一年後の再度の来航を告げ、六月十二日に江戸湾を退去し、香港へ戻った。
こうして、ペリーが練った日本への開国要求作戦の第一ラウンドは終わった。
わずか十日間の出来事だったが、長い鎖国に安住していた徳川幕府は心底仰天し、度胆を抜かれた。

ペリーの砲艦外交に慄いた幕閣は、同月十九日、海防問題に強い関心を持ち、自ら下田で警備にあたっていた伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)(太郎左衛門、号は坦庵)を、急遽、幕府勘定吟味役方に任じて幕政に参画させた。
江川英龍は着任するや、ペリーの二回目の来航に備えて海防策に取り組み、その年の八月から翌年五月までに総工事費約七十五万両を投入して、江戸湾の品川沖に五基の砲台を築いた。お台場である。
併せて、江川英龍は、海外の事情に詳しい人材の登用が必要と考え、土佐藩の万次郎を自分の片腕として配属するよう幕府に願い出た。
幕府は、すぐさま江川の願いを容れ、六月二十日付で土佐藩に万次郎召し出しの命を出した。
これを受けて万次郎は、江戸鍛冶橋の土佐藩上屋敷に入った。
万次郎は、江戸到着後、落ち着く間もなく老中からの出仕命令を受け、首席老中阿部正弘、勘定奉行川路聖謨(としあきら)、江川英龍など主要幕閣の前で、アメリカの国情、政治、経済、海軍の実態、国民性などについて詳細な説明を行った。