3.咸臨丸乗船員の決定-8

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

3.咸臨丸乗船員の決定-8

帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。そこで万次郎は、英語や海外の情勢を講じ、後藤象二郎や岩崎弥太郎などを教えた。河田小龍を介して万次郎の見聞を聞いた坂本龍馬も、世界に目を向けるようになった。
土佐以外でも、勝麟太郎、榎本武陽、福沢諭吉などが万次郎の存在を知り、強い影響を受け、触発された。
翌年、万次郎の身辺に大きな変化が起きた。
嘉永六年(1853)六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレース・ペリーが黒い塗装の蒸気船二隻と帆船二隻を率いて、江戸湾の入り口浦賀沖に突然現れた。
日本遠征艦隊のペリー提督(五十九歳)は、前年の嘉永五年(1852年)十月に軍艦四隻を率いて、アメリカ東海岸の軍港ノーフォーク(バージニア州)を出発し、大西洋を渡り、アフリカ南端喜望峰を回ってインド洋に入り、シンガポール、香港、台湾を経由して日本に到った。黒船艦隊は旗艦サスケハナ号とミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の四隻だった。
当時の江戸湾の防備は、浦賀周辺に一〇〇門近い大砲が据えられていたが、射程距離はせいぜい五〇〇メートルだった。ペリー艦隊は浦賀沖約一五〇〇メートルの距離に南北一列に停泊した。これは、江戸幕府の陸上砲台からの射程外で、しかも、ペリー艦隊の射程距離約一六〇〇メートルの大砲からは、陸上の全砲台と浦賀の町を艦砲射撃の射程内に入る陣取りだった。
ペリーは、黒船に護衛させて測量挺を江戸湾深くに侵入させて、強引、かつ精力的に江戸湾の測量を行った。ペリーの狙いは、第一に、圧倒的な武力の差を日本人に見せつけ、江戸城の目と鼻の先で測量を強行して幕閣たちを威嚇すること、第二に、艦隊を江戸湾に進入させた場合の良好な停泊地を探っておくことにあった。

しかし、実際には、幕府はペリー来航に先立つこと一年前の嘉永五年六月に、長崎の出島に着任したオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスが長崎奉行に提出した『別段風説書(べつだんふうせつがき)』という文書によって、『アメリカが日本との条約締結を求めており、近々、ペリーを司令官とするアメリカ艦隊が陸戦用の兵士と兵器を搭載して江戸湾に来航するであろう』」という情報を得ていた。
この情報に接した老中首座阿部正弘は、主要な大名にこれを回覧するとともに、海岸防衛御用掛に意見を求めた。しかし、海岸防衛御用係からは、「通商条約は結ぶべきではない」との回答があり、また、長崎奉行からは、「オランダ人の情報は信用できない」との意見が寄せられたため、結局、この情報は幕府内の奉行以上に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力たちに伝えられなかった。
このときに幕府が採った対策は、僅かに、三浦半島の防備を担当する川越藩、彦根藩の兵士を約百五十人増強し、常駐させる程度のものにとどまった。