「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
3.咸臨丸乗船員の決定-7
そこで、帰国の望みを持つ万次郎と伝蔵、五右衛門が上海行きの商船セアラ・ボイド号に乗り込み、日本へ向けて出発した。
嘉永四年(1851)一月三日、万次郎たちは太平洋の上で、セアラ・ボイド号から手こぎの小舟に乗り換えて、薩摩藩に属していた琉球の摩文仁海岸に上陸した。
上陸した途端、万次郎らは島の役人に捕まり、約半年近く番所で尋問を受けた。
そして、同年八月に薩摩本土へ送られた。
鎖国状態の日本へ帰国した万次郎たちは、薩摩藩の取調べを受けたものの、思いのほか厚遇され、開明的な藩主で、外国の文明を積極的に取り入れようとしていた島津斉彬から直々に、海外の情勢や文化について詳細な質問をいろいろ受けた。
斉彬は万次郎に酒をすすめ、アメリカの政治や軍事力を尋ねた。
万次郎は丁寧に説明した。
「アメリカは世界一の強国です。アメリカに逆らえば、日本はひとたまりもないことでしょう。アメリカには代々続く王室などはありません。すぐれた知識と能力がある市民が、入り札(選挙)によって、国の指導者に選ばれます。指導者の役目は四年の間続きます。この指導者はアメリカ合衆国大統領と呼ばれます。大統領の生活はとても質素で、馬に乗って移動するときも、お付きの人間は一人だけです。
アメリカには身分による分け隔てはありません。庶民も役人になる機会が平等にあります。生まれや家柄は一切関係がありません。国民一人ひとりが、努力次第で能力に見合った地位につけます。一人ひとりの意見や希望を大切にするのがアメリカという国です」
斉彬は興味深げに耳を傾けた。斉彬にとって万次郎の外国の知識は望ましいものであり、万次郎たちは脱国の重罪人というよりも、むしろ、賓客としての扱いを受けた。
薩摩藩での取調べの後、万次郎たちは天領である長崎へ送られ、江戸幕府の長崎奉行などから長期間にわたり厳しい尋問を受けた。
万次郎は、長崎奉行所でキリストを抱いた聖母マリアの絵を踏まされた。踏み絵というものだった。万次郎は、キリスト教徒でないことを証明させられたうえ、アメリカから持ち帰った文物すべてを没収された。
その後、万次郎らは土佐藩から迎えに来た役人に引き渡され、土佐に帰った。幕府は、万次郎たち三人を土佐藩に引き渡す際に藩に条件をつけた。それは、『三人を勝手に土佐領外へ住まわせてはならぬ。死亡のときは幕府へ届け出よ』というものだった。
当時の土佐藩主は山内容堂。進歩的な考えを持った藩主で、藩政改革を進め、吉田東洋を郡奉行から藩の大目付に抜擢していた。
吉田東洋と藩士たちは、容堂の意向に沿う形で万次郎を取り調べた。形式は尋問ながら、実質は面談であった。蘭学の素養のあった絵師河田小龍が同席した。
容堂も東洋も河田も、万次郎から聞く欧米の事情に熱心に耳を傾けた。
土佐は海岸線が長く、外国船が接岸する可能性が多かった。このため、早くから海防に意を注いできた土佐藩は、外国船の接近に対処するためにも、万次郎の見聞を重く扱った。
万次郎は、吉田東洋たちによる聞き取りの二ヶ月後に帰郷が許された。日本への帰国から約一年半後の嘉永五年(1852)十月五日、漂流から十一年目にして、ようやく故郷中の浜に戻ることができた。