「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
3.咸臨丸乗船員の決定-5
万次郎は十六歳。日本を離れて約二年、ジョン・ハウランド号の船上で、いろいろな人種の人たちに交じって働いた。これが、後々の貴重な経験となった。
アメリカ本土に上陸した万次郎は、ホットフィールド船長の強い希望によって船長の養子となり、マサチューセッツ州・ボストン南部にある港町フェアヘブンの船長の故郷の家で、船長と一緒に暮らした。
ホットフィールド船長は、万次郎と生活を共にしながら、万次郎は英語の習得が早く、周囲のアメリカ人とのコミュニケーションもよく取れ、アメリカの生活習慣に素早く溶け込める資質を充分に持っていることを見抜いた。
そして、1843年(天保十五年)に万次郎をオックスフォードの小学校ストーン・ハウス・スクールに入学させ、算数を学ばせ、アルファベットを覚えさせ、英語の読み書きやペン字を習得させた。
万次郎は、ホットフィールド船長によって、アメリカ社会でアメリカ人として生き抜くための心構えと基礎教育をたたき込まれた。
万次郎はホットフィールド船長の期待に応え、クラスで首席の成績を収めた。
次いで船長は、1844年(弘化元年)に、バーレット・アカデミーという航海学の専門学校に万次郎を通学させて、英語、数学、測量、航海術、造船技術など航海術に必要な高度の教育を施した。
ジョン・マンは、当時のアメリカで航海者のバイブルという評価を得ていたナザニエル・ボーディッチ著の「新アメリカ実用航海術概要」という航海学書を手に入れ、これを読み、熱心に勉学に励み、首席となった。
また、民主主義や男女平等など、日本にはなかった新鮮なアメリカの生活と文化を経験した。
しかし同時に、教会への立ち入りを拒絶されるなど、激しい人種差別や陰湿ないじめにも遭った。
そして万次郎は、三年間の学業を終えると再び捕鯨船に乗る道を選んだ。
『太陽と海は、すべての者に公平だ』と、思ったからだ。
万次郎が乗り込んだ船は、フランクリン号という捕鯨船だった。
ジョン・マンは、フランクリン号で世界の海のすみずみまで航海するうち、高度の操船技術を身につけた。
あるときは、海底を泳ぐ大きなウミガメを見つけ、太平洋の真ん中で、単身、ナイフを口に銜(くわ)えて船から海に飛び込み、首尾よくウミガメを仕留めて、仲間の食糧に供した。
船乗り仲間は、危険をかえりみず自分たちのために働いたジョン・マンに向かって、足で甲板を踏み鳴らして万次郎の勇気を褒め称えた。