「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
万次郎
3.咸臨丸乗船員の決定-4
万次郎は、文政十年(1827)一月二十三日、土佐・中の浜の半農半漁の家の次男として生まれた。父は悦助、母は汐といい、兄と二人の姉と一人の妹がいた。万次郎が九歳のときに、父親が妻と五人の子供を残して病死した。長兄は病弱で仕事ができず、次男の万次郎は十歳を過ぎる頃から、兄に代わって働きに出て、一家を養った。
天保十二年(1841)正月五日、十四歳のとき、万次郎は初めて経験する延縄(はえなわ)漁で海に出たが、土佐沖で冬場の時化に襲われ、そのまま海流に流された。
万次郎は、漁師仲間である、最年長で船頭役の伝蔵とその弟で漁師の五右衛門、重助の三兄弟、そして、同じく漁師の寅右衛門の四人と共に小舟で六日間漂流した後、伊豆諸島の最南端に浮かぶ鳥島という周囲一里(四キロ)余りの絶海の無人の火山島に漂着した。
その孤島で、万次郎は毎日お陽さまに無事救出の願(がん)をかけながら、百四十三日の間生活した。食糧は、主として海辺で捕れる魚貝と島に飛来するアホウドリの肉だった。
ようやく万次郎の願いがお陽さまに通じて、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に偶然発見され、万次郎は仲間四人と共に救出された。
ジョン・ハウランド号は、三百七十七トン。米国東海岸マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォードに船籍を持つ帆船で、七つの海を駆ける西洋捕鯨船の中でも大きいほうの船だった。
その頃の日本は鎖国を続けており、『異国船打払令』が出ていたため、五人は日本に帰ることができず、万次郎を除く年上の四人は寄港先のハワイ・オアフ島ホノルルで下船し、ハワイに滞在する道を選んだ。
万次郎は、船長のウイリアム・H・ホットフィールドに頭の良さと回転の速さを見込まれ、船長に同行してそのまま捕鯨の航海を続けた。
万次郎は毎日、捕鯨船の船上で陰日向なく懸命に働いた。乗組員たちはこの働き者の万次郎を、船の名をとってジョン・マン(John Mung)と呼んで可愛がった。
ジョン・ハウランド号は、万次郎が乗船した後、ニューギニア、タヒチ、グアムに寄港し、南米ケープホーンを通過し、百リットル以上入る大樽二千七百六十一個分の鯨油と、日本人ジョン・マンを含むポーランド人、フランス人、イギリス人、イタリア人などいろいろな人種の乗組員三十四人を乗せて、1843年に母港ニュー・ベッドフォードに帰港した。延べ三年半に渡る外洋航海だった。