「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
3.咸臨丸乗船員の決定-2
ブルック大尉は、十五歳で海軍に入り、当時三十四歳の老練な帆船乗りであるばかりでなく、アメリカ海軍随一の航海経験者であった。六年前にペリーが来日した当時は、測量船で中国、日本、ベーリング海まで航海した。今回はアメリカ西海岸のサンフランシスコからホノルル、マニラ、香港、琉球を経た後、不運にも日本近海で船が損傷して航海を続けることができなくなり、七月にやむなく横浜に上陸した。ブルック大尉は五ヶ月余り日本に滞留して、帰米する機会を待っていた。
木村摂津守の来訪を受け、その願いを聞いたブルック大尉は大いに喜び、護衛艦への乗船の希望と航海の協力を積極的に申し出た。
しかし、勝麟太郎にだけではなく、士官たちの間にも、今回の航海は日本人の力だけでやるべし、という意見が根強くあった。
なぜなら、自分たちが長崎海軍伝習所で積み重ねてきた航海の伎倆を大洋に出て実際に試してみたいという思いがあること、また、世上に攘夷の勢いが広まっていたことから、異人の力は借りない方がよいという雰囲気になっていたからだ。
しかし、軍艦奉行の木村摂津守は、困難が予想される外洋航海の前途を危ぶみ、アメリカへの単独横断航海という日本人初の挙に挑戦するためには、ブルック船長以下のアメリカ人船員の操舵技術と経験を欠かすことはできないと考えた。
その年、安政五年の十二月二十五日、木村は渋る勝麟太郎を説き伏せ、中浜万次郎を伴い幕府軍艦の咸臨丸で横浜に赴き、勝をブルック船長に引き合わせた。また、ブルック船長に咸臨丸を見せ、四人で半日近く話し合った。
咸臨丸は、安政四年(1857)に徳川幕府がオランダから購入した帆船で、全長約五〇・九メートル、幅約七・三メートルの一〇〇馬力蒸気帆船。排水量六百二十五トン、三本マストの軍艦(砲一二門)だった。
判断の切り替えが早い勝麟太郎は、ブルック大尉に自ら接してみて、大尉の人物、力量を見抜き、咸臨丸の航海案内に必要な人物であると考えた。
勝は、『己の栄達のためには、この亜人の力が必要だ』と判断を変え、ブルック大尉の乗船に同意した。
当時、幕府の内部では、別船とする軍艦の候補船として、観光丸(三百五十三トン)と朝陽丸(三百トン)の二隻が検討の対象とされていた。しかし、この日の会談の場で、観光丸は外輪船であるから、構造上、荒海の大洋航海に不向きであろうという見解がブルック大尉から出された。一方の朝陽丸は螺旋(スクリュー)船で、長期航海にはプロペラ推進機器が適しているという世界の趨勢からみて、朝陽丸が別船に適しているという意見の一致が一度はあったものの、幕府内の諸事情がからんで、朝陽丸を候補船から外さざるを得なくなった。
そして、最終的に、同じ螺旋(スクリュー)船の咸臨丸を別船として派遣する案が浮上し、ブルック大尉も、これに賛意を示した。
このように、ブルック大尉は別船としての咸臨丸の選定を含め、日本人初の大洋横断の成功を真剣に考え、いろいろと知恵を出してくれた。
木村と勝は、ブルック大尉の熱心な話しぶりと細かな忠告の内容から、ブルック大尉の護衛艦への乗船と協力の申し出の真意が、『日本の軍艦が渡米する機会を利用して自分たち十一人が母国アメリカに帰国するということよりも、むしろ、ブルックたちアメリカ人船員が横浜に滞留している間に日本人から受けた親切に報いるため、日本人にとって未経験の大洋横断航海を成功させる力になりたい』という義侠心にあることに気がついた。
ブルック大尉の心意気を感じ取った勝は、ここは一番、自分のリーダーシップを士官たちに見せておく必要があると考え、胸を叩いて木村に言った。
「まかせておけ、木村さん。俺が、士官の連中を説き伏せてみせる」
年長の勝が、木村に張った見栄だった。