福沢諭吉の乗船実現ー3

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

2.沢諭吉の乗船実現-3

ところで、逸話となるが、桂川甫周は、弘化四年(1847)、数え年二十一歳のときに十二代将軍徳川家慶の奥医師となり、次いで法眼に叙せられた。
福沢諭吉が桂川家に出入りし始めた安政五年(1858)から遡ること十二年前のことであった。
その頃のある日、浜御殿に遊びに来た将軍徳川家慶が、そのときの浜奉行木村喜彦(木村摂津守の父)に命じて言った。
「又助、娘の久邇(くに)を桂川家に嫁がせよ。仲立ちは余じゃ」
将軍家慶は、たいへんな才媛であった木村喜彦の娘久邇を、蘭学の総帥であり、将軍家お気に入りの奥医師桂川甫周に娶らせることが最高の組み合わせだと考えた。
木村久邇は、器量がよく、舞などの芸ができ、薙刀や馬などの武芸にいたるまで優れ、片手で碁盤の上に碁石を置いたまま持ち上げたという。碁も二段の腕前だったという。
将軍の一言で、木村家と桂川家は姻戚関係になった。
さらに、桂川甫周について書き加えると、甫周には、『てや』という三歳年下の妹がいた。
『てや』は、天保十一年(1840)四月、十一歳のとき江戸城大奥にあがった。
人柄は穏やかで、周囲の女中たちからも好かれ、陰日向なく真面目に働いて大奥の局の信頼を得て、中臈・花町の部屋子となった。
次いで、翌天保十二年に大御所の徳川家斉の正室(御台所)・広大院付の中臈に引き立てられた。
『てや』は、大奥に上がってから僅か一年余りで異例の出世を遂げた。
ところが、天保十五年(1844)五月に江戸城本丸の大奥長局から出火した火事の際、高齢の花町が災の中に取り残されたため、先に助け出された広大院の命を受け、『てや』は花町を救出すべく火事の現場にとって返し、燃え盛る火の海に飛び込んだ。
しかし、花町の姿をどうしても見つけ出すことができず、主人・広大院の命を守って花町を探そうと必死に現場に踏みとどまり、紅蓮の炎に身を焦がして命を落とした。
『てや』は、焼死する寸前、炎から逃げ出す女中達に「燭台を持った遺体が見つかったら、それは私です」と言い遺し、炎の中に突き進んだ。享年十六歳だった。
時の将軍徳川家慶は、『てや』の身命を賭した見事な奉公ぶりと潔い死に様に感涙して「大奥女中の鑑」と讃え、『惠光院殿』という異例ともいえる高位の戒名を贈った。
木村家と桂川家の姻戚関係の成り立ちには、このような徳川将軍家の両家に対する深い思い入れと両家に対する身内意識が根底にあってのことだった。